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■関西ウーマンインタビュー(クリエイター)


山田 智代さん(ボタン職人)

「私にしかできないもの」 創ることで素の自分が出せる

山田 智代さん
(ボタン職人)
ひまわり、ちょうちょ、オレンジ、きのこ、フクロモモンガ、金魚、雪の結晶、虹・・・いろイロな柄の小さなボタンたち。

洋服に、アクセサリーに、どのボタンをつけようかと想像しながら眺めているだけで、ほんのり幸せな気持ちになります。

「幸せの種をまきましょう」をコンセプトに、オリジナルボタンをつくる『tomoon』の山田智代さん。

ボタンづくりは仕事ですが、山田さんにとってはそれだけではありません。心の支えであり、自分の軸を持って生きるきっかけを与えてくれたものです。果たして、その意味とは?
夢中になれると、心が落ち着く
以前は保育士をされていたそうですね。
自分で言うのもなんですが、よく気がつき、よく動くので、子どもや保護者からも信頼されていて、自分でも「この仕事は天職」とまで思っていたんです。

でも、職場の人間関係がうまくいかない・・・。もっとも私を追い詰めたのは、同僚のトラブルでした。出勤するのが苦痛で笑顔も出せず、人間不信からうつ病になってしまったんです。

子どもたちの気持ちを考えると、保育園時代を思い出すたびに嫌な思いがついてまわるのではないかと、思い悩む毎日。

唯一、ボタンをつくっている時だけが嫌なことを忘れさせてくれました。
ボタンづくりが心の支えになっていたんですね。そもそもボタンをつくり始めたきっかけは何だったのですか?
洋裁の先生と一緒にボタン屋さんに行ったら、たくさんのボタンがあって、こっちを向いて「僕を選んで」「私を選んで」と声をかけてくれているように見えたんです。

ボタンで洋服の雰囲気が変わるから、ボタンは役者、私は監督。すっかり、ボタンに興味津々になりました。

ふと、高校生の頃、友だちのお母さんからブローチづくりを教わった時に使った樹脂粘土を思い出します。粘土をこねて丸めて穴を開けて焼いてみたら、ボタンみたいなものができた!

洗濯しても壊れないし、アイロンを当てても溶けなくて丈夫。これはいい! 原始人が火を起こした時の感動はきっとこんな感じだったのでは?

さらに、かまぼこ製造で白と紅色の練り物を組み合わせると、断面に「寿」の文字が表れるのをテレビで観て、「そうか!金太郎あめの要領でボタンをつくったらいいのか!」と。

色を組み合わせたマーブル状のものしかつくれなかったのが、色も模様も無限に広がる方法をひらめいて、ますます夢中になっていったんです。
「私にしか」が自信につながる
最初は趣味だったボタンづくりが仕事になっていったのですね。
知人から「商品として売れるんじゃない?」とおだてられて、その気にさせられました(笑)。

母のパッチワークの先生が「おもしろいし、珍しいからお店に置くよ」と言ってくれて、取扱店の第1号が誕生。

うつ病で保育士を休職している間に、近所の雑貨店に行ったら、店主さんが「おもしろいものをつくる人なんだから夢を持って! 今は保育士を天職と思っているかもしれないけれど、何が自分に向いているかはわからないよ」と勇気づけてくれました。

ボタンを取り扱ってくれた上に、ボタンの話をたくさん聞かせてくれたり、海外への仕入れに同行させてくれたり、週末だけお手伝いさせてもらったり。

「tomoon」という名前も「ともちゃんのボタンがほしいという人が増えてくるかもしれないから、オリジナルの名前を考えておいたほうがいいよ」とつけてくれたんです。

ボタン職人として仕事を少しずつ広げながら、15年ほどは「保育士とボタン職人」「ペンの製造工場スタッフとボタン職人」と二足のわらじでした。
現在は二足のわらじではなく、ボタン職人を中心に、さまざまな表現活動もされています。どのタイミングで二足のわらじを辞めたのですか?
35歳の時に「卵巣がん」と診断されて、死を覚悟した体験がきっかけです。それがなければ、一歩踏み出せていなかったかもしれません。

人間不信が募る出来事があっても「保育士は天職」と思っていたので、辞める決断がなかなかできず・・・結局12年ほど勤務したのですが、恩師から「自分のために一度離れてみたら?」とアドバイスを受けて転職。

この時点ではまだボタン職人一本でとはならず、機械相手の仕事をしようとペンの製造工場でパート勤務を。保育園とは違い、性別も年齢も生き方も多様な人たちの中で働くおもしろさを感じ、5年が経過。

そんなある日、下腹部の膨らみに違和感を覚えて病院に行ったら、悪性腫瘍があると言われたんです。

なんて私の人生はおもしろくないんだろう、浮き沈みの多い人生だろう・・・こうしてつくっているボタンも遺作になるのかなと、手術当日までボタンをつくっていました。

でも、手術で開いたら、卵巣がんではなく、子宮筋腫の変型だったと、医師も驚く奇跡が! 人生にはこんなにもすごいことがあるんだって。神さまにも背中を押されている気がして、一歩踏み出せました。
保育士時代に人間不信になって、「機械相手の仕事なら」とペンの製造工場スタッフに転職。そういう経緯がある中で、ボタン職人としてお店の方やお客様などさまざまな人たちと関わっていくことに不安はありませんでしたか?
最初は不安だったので、店主さんとのやりとりだけで済む委託販売という形を選んだんです。

次第に、心持ちに変化が出てきました。自分でやっていくことは誰の責任にもできないので、自分を信じて、自分を試す機会にもなっていたんだと思います。また「私にしかできないもの」をつくっていることで、自信もついてきたんじゃないでしょうか。

その4年後の2004年には、自宅でアトリエ兼ショップをオープン。近所の「ならまち」に雑貨店やカフェが増えて、新聞や雑誌、テレビなどでも取り上げられることがあったので、私も自宅で販売を始めてみようかなあと。

「私もボタン職人として長年やってるで~」と思ったし、つくり手としてお客さんに想いを話してみたいという気持ちも芽生えていました。

昔の私からは想像もできない変化! 友だちを自宅に招くような形にしたら、私もお客さんも緊張しないだろうし、素でしゃべることができるのではないか。

靴を脱いで上がってもらうようにすれば、少しハードルが高くなるから、合わない人は来ないだろうし・・・来たい人が来てくれたらいいと宣伝もせず、待っていました。

すると、不思議なことに、波長の合う人や動物、植物を引き寄せていて、人と対話するおもしろさを知ることができたんです。
自分軸があることの強さ
ボタンを中心とした自己表現によって、自分を解放して軸をつくってこられたのですね。
壁や悩みが多い人生でしたが、今の道に進んでからはまったくありません。

それまでは「みんなに合わせないとあかん」「出る杭は打たれる」と思い込み、人のちょっとした動きや話し口調に敏感で、自分の言いたいことを押し殺して、「そうですね」と合わせてしまう自分がいました。

今はその逆です。「自分って変わり者?」「他の人とは違う」というところこそ、大切にします。 たとえば、他の人がかわいい色のお花が好きというところを、私は葉っぱがおもしろいものや食虫植物が好き。

その変わった感性を表現したら、ええんちゃう? ぬいぐるみをつくる時も鼻が横を向いていてもええんちゃうと、いびつな形のものをつくっています。

そうやって自分の素を出すと、作品をつくりやすくなってきたんです。 人から何か言われても「自分の感性と合わないだけ」と思えるし、自分がつくったものだから「私はこうです」と意見を言うこともできる。

反対に、人からの意見に対して、私自身が「確かに」「それ、いい!」と思えば、変えることだってできます。
人間不信も少しずつ和らいできたんですね。
2006年から一緒に暮らしていた「ウラビー」の存在も大きいです。

ホームセンターのペットコーナーで5年ほど売れずにいたワラビーで、前を通りかかるたびに気にかかっていました。おびえる様子を見て、「人が嫌いなんやろう?私も同じやで」と見るに見かねて飼うことにしたんです。

まぼろしのような子で、その6ヶ月後には腸閉塞で亡くなってしまいました。 ホームセンターで客寄せパンダのようにされていたから晒しものにしたらかわいそうと、ウラビーのことをほとんど知らせていませんでしたが、ご存知のお客さんが、ウラビーが亡くなってから、言葉をかけてくれたりカンガルーグッズをプレゼントしてくれたり・・・

「ウラビーは最後にここで過ごせてよかったね」と言ってくださる方も。 ウラビーや私を思っての言葉や行動の数々、たくさんのあたたかい気持ちに触れることができました。

ウラビーが「悪い人たちばかりじゃない。信頼できる人もきっとできるよ」「気持ちをわかってくれる人に、わかってもらえたらええやん」「僕が守ってあげるやん」と言ってくれているような気がしたんです。
ウラビーの存在によって、人のあたたかさに触れて、「ひとりじゃない」という心強さを持てたんですね。最後にうかがいます。今はどんな夢を思い描いていますか?
2013年に自費出版した実話絵本『ワラビーのウラビー』を見てもらいながら語る場をつくりたいと思っています。

私自身が人間不信からウラビーと一緒に過ごしたことで「人の愛」を再確認でき、人との関わりが雪解けできたので、そんなことを伝えることができたらいいなあ。

いつも心にあるのは「幸せの種をまきましょう」。英語短文集で見つけた言葉で、自分がまいた種は自分で刈る・・・つまりは「因果応報」という意味があるようです。

その言葉を胸に、これからもお客さんにわくわくウキウキしてもらえるような作品をつくりたいし、幸せの種をまく人を増やしていきたいですね。
山田 智代さん
保育科のある高校を卒業後、保育士になり、休職・転職を経て、計4箇所の保育園で12年ほど勤務。その後は、ペンの製造工場で5年ほどパート勤務した。並行して、1985年からボタンづくりを始め、1990年には『tomoon』という作家名を命名。2000年には二足のわらじを辞めてボタン職人一本に絞る。2004年には自宅でアトリエ兼ショップをオープン。ボタンをはじめ、そっくりさん人形や動物ぬいぐるみなどオリジナル作品を制作するほか、手づくりマーケット『クラフトサーカス』の企画・運営、腹話術師、着ぐるみ姿で施設訪問など「表現者」としても多岐に渡って活動する。著書として「ウラビー」と名付けたワラビーと共に過ごした日々について描いた絵本『ワラビーのウラビー』(文芸社)があるほか、ボタンづくり本の監修を担当したこともある。
tomoon
http://www5.kcn.ne.jp/~tomoon/top.html
(取材:2017年5月)
人間不信になってしまう体験の数々、死を覚悟する出来事を経て、働き方と生き方を変えた山田さん。

以降は、自分自身と向き合い、他人と比較して「良い・悪い」「良い・駄目」「正しい・間違い」ではなく、「違う」ことを大切にして強みにすることで、自分自身を少しずつ解放されてこられたように思います。

「壁や悩みが多い人生でしたが、今の道に進んでからはまったくありません」とおっしゃっていましたが、今だってさまざまな出来事がおありになると思います。

でも、それらが壁や悩みと思わず、乗り越えていけるのは、「自分を生きている」という感覚があるからこそ。その感覚がとても大切なのではないかと思いました。
小森 利絵
編集プロダクションや広告代理店などで、編集・ライティングの経験を積む。現在はフリーライターとして、人物インタビューをメインに活動。読者のココロに届く原稿作成、取材相手にとってもご自身を見つめ直す機会になるようなインタビューを心がけている。
HP:『えんを描く』

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