HOME ■関西ウーマンインタビュー(アーティスト) 真箏「MAKOTO」さん(元祇園芸妓/JAZZシンガー) 前のページへ戻る

■関西ウーマンインタビュー(アーティスト)


真箏「MAKOTO」さん(元祇園芸妓/JAZZシンガー)

 
真箏「MAKOTO」さん (元祇園芸妓/JAZZシンガー)
16歳で祇園甲部の舞妓となり、21歳で襟替し芸妓になる。芸妓をしながらJAZZシンガーとしても活躍し、2001年「MAKOTO」でメジャーデビュー。2011年6月「MAKOTO Sings JAZZ」リリース、2013年11月 「顔見世」ユニット[オグコト]リリースするなど、数々のCDを出しライブ活動もしている。二カ所の癌を患い1年の闘病生活を経て復帰するも、2013年芸妓を引退。現在はFM京都 α-Stationでパーソナリティをするなど活躍中。京舞井上流名取/京都市観光振興委員/スイーツスペシャリスト認定/ナチュラルフードコーディネーター認定
BLOG:http://ameblo.jp/peace1love2u/  Facebook:https://www.facebook.com/makoto.kyoto
真箏の部屋:https://www.facebook.com/makotonoheya
FM京都 α-Station Sweet'n Marble Lovers 毎週(日)夜7時〜7時30分⇒HP
真箏さんは京都生まれで京都育ちで舞妓さんになられたそうですが、やはり小さい頃から舞妓さんを見ていて憧れていたのですか?
父が祇園でジャズバーのお店をしていましたので、そこに舞妓さんや芸妓さんも良く来てはったんです。小さい頃から「あんなきれいな簪(かんざし)つけたいなあ」という憧れもありましたし、周りからも「大きくなったら舞妓になるんやね」と言われていたので、その気になっていたと思います(笑)でも歌が好きだったので、舞妓になるか歌手になるかと悩みましたが、舞妓は15~16歳から20歳前後までしかできないし、歌はお風呂場でも歌えるし。「よし、それなら舞妓さんになろう」と決めました。
舞妓さんになろうと決めてから、何をされましたか?
中学1年の終わり頃、舞妓さんになろうと決めてから、早速お稽古に行きたいと思ったんです。祇園甲部の舞は井上流なので、たまたま同級生が井上流を習っていたこともあり、お師匠さんを紹介していただきました。お師匠さんに「舞妓さんになりたいので入門させてください」と言うと、「舞妓さんになるとか思わんとお稽古はじめはんねやったら、教えさせてもらいまひょか」と言われたんです。とにかくお稽古を始めたい一心で、お嬢さん稽古でもいいからとお願いして習わせていただきました。
置屋さんに入られてから、どのくらいでデビューするのですか?
中学卒業してすぐ置屋さんに入らせていただいて、そこから約10ヶ月くらいで舞妓になりました。東京や他の地域から来られた人はそこからスタートなので、たくさんお稽古して、ある程度のことを覚えてから「お店だし」というデビューになりますが、私はその前にお稽古していたので、少しだけ早くデビューさせてもらうことができました。
置屋さんでの修行は厳しいと伺いますが
置屋さんに入ると「仕込みさん」といって、部屋の掃除や、お姉さんの簪(かんざし)を磨かせてもらったり、着物を着はるお手伝いしたり片付けたりからはじまります。厳しいのは厳しいですが、私はすごく楽しかったですね。

置屋さんのおかあさんも良い人で、お姉さんもすごくおもしろい人でした。舞妓さんになる、という覚悟もありましたから、厳しくとも、そういうもんやと思っていたんでしょうね。お休みの日も置屋さんに行って、お姉さんのお手伝いを自分から進んでしていました。
お座敷のお客様というと、それ相当のお客様ばかりだと思いますが、その辺りのご苦労は?
お座敷に入ってからのほうが大変でしたね。「お店だし」が最終ではなくて、また新たな始まりなんやということに気付きました(笑)

花街によって違いますが、うちのところは若い人から座敷に入っていくんです。すると必然的に上座に座ることになりますね。上座のお客様にお酌をさせていただきながら、裾にいらっしゃるおねえさんたちが、注いではるビールが無くなったと思った瞬間に、自分が取りに行かないといけない。場の空気を見ながら気遣いすることも、人を見て覚えました。
舞妓さんをされながら、歌も歌っておられたそうですね。
当時はカラオケのレーザーディスクが流行っていて、お座敷の二次会などでよく歌わせてもらっていました。その頃はドリカムの歌が流行っていたので歌っていると、「あんたの歌、合うてんのか外れてるのか、わからん歌やな。ハイカラ過ぎてわからんわ」と言われていたんです。お客様の中には、「思い出のサンフランシスコ」とか英語で歌われる方もいて、そういうのも良いなと。そこでホイットニーヒューストンの「Saving All My Love For You」など、英語の歌を覚えて歌うようになったんです。

知り合いの板前さんに、ジャズの生演奏が入っているお洒落なお店に連れていってもらったことがあって、そこで「真箏も1曲歌わせてもらい」と言われ、舞妓さんの格好でホイットニーを歌ったんです。すると「なんや?この子」ってびっくりされて(笑)。そのクラブのママも気に入ってくれはって「いつでも練習に来てくれて良いよ」と言われたんです。

置屋さんに帰って「いつでも練習しに来ていいよって言わはったから、おかあさん行ってもいい?」と聞くと、「ええなあ」って喜んでくれはったんです。おかあさんもジャズが好きな人で、私がラジカセでソウルミュージックを聴いていると、「ええのん聞いてるね。おかあちゃん、こういうの大好きやねん」って言わはるおもしろいおかあさんなんです(笑)でも私が初めて貯めたお小遣いで買ったDJブースみたいなオーディオセットを見ると、さすがに、「おかあちゃん何も言えへんわ・・」って唖然としていましたけど(笑)
その後メジャーデビューもされましたが、そのきっかけは?
芸妓さんになってからも趣味でジャズを歌っていて、ジャズトリオの方たちから「ライブで歌いに来ない?」と誘われるようになっていました。ある人の結婚式で歌っていると、そこに音楽関係の人がいらっしゃって、「関西のヴォーカリストを集めて1枚のコンピュレーションアルバムを作るので、参加しませんか?」と言われたのが最初のきっかけでした。

その後、友達のピアニストと1枚アルバムを作ったので、それを録音したカセットテープを持ち歩いていたんです。するとある宴会に呼ばれたとき、東京のミュージシャンの方とお話する機会があって、「僕の事務所の社長に聴かせてもいいかな」と言われました。その後、音楽事務所の社長が私のライブに来られて、「芸妓さんしながら、できることをやっていかないか?」というお話をいただいて、レコード会社も決まり、2001年にメジャーデビューさせてもらいました。
その後、ご病気が発覚されたのですね。
2011年に、ジャズのアルバムを作ろうとレコーディングが始まったんですが、その頃の私は、生活的にフラフラだったんです。

というのも、芸妓さんとして長年やってきて、いわゆる「中間管理職」に差し掛かっていたんですね。以前から大きなパーティがあるときは、常にメンバーに入れていただいていたので、あれもこれも、これもあれも、という立場になってしまっていたんです。

そんな中で歌もやっていて、お稽古も突然舞い込んでくることもありますから、どうにかしないといけない。「どれも断られへんし、どないしよ」と、1日のスケジュールがパツパツだったんです。そうなるとやっぱり「ひずみ」って来ますよね。

仕事も楽しいし歌も楽しい。でも1人になると、「何のために生きているんやろ」という気持ちが生まれてきてしまったんです。寝てエネルギーを蓄えようにも少量しか蓄えられなくて、それ以上に使ってしまう。「自分さえ我慢すれば」とか、「自分のやりたいことだから」と言い聞かせていたことが、結局、自分のためになっていなかった。

その時に、東日本大震災が起きて、それも人ごとに思えなくて、食い入るようにテレビを見ながら、「何か自分にできることは無いか」って考えてしまう。自分のこともできていないのに。そんなある日、胸のデキモノを見つけて、二カ所の癌を患っていることが分かったんです。
1年間治療に専念されたんですね
胸にプクってできものができていたので、「何?これ」と思い検査に行くと、癌の疑いがあると言われ、その日のうちに手術することを決めました。

抗がん剤で頭もツルツルになりましたけど、1年後に復帰することができました。最初はゆるいペースで始めようと思っていましたが、一応、外では元気に振舞うので、周りはだんだん私が元通りなったように見えてくるんですね。これって前と同じことになってきているなと感じ始めたんです。

ある日お稽古している時、「私、元通りじゃないんです。精一杯やってるんです」と思うと、涙が溢れてきたんです。すると「お告げ」のように「ピッ」っと来たものがあって、「私、何やってるんやろ」と。その瞬間、「26年間辛いことも良いことも、今までありがとう。この舞台が終わったら辞めよう」と決めたんです。
辞めたあとのことは考えていましたか?
何も考えていませんでした。そこでご縁が無くなることもあるだろうなと思いました。「二足のわらじ」だからこそ、というのもありましたから。でもそれはそれ。歌はどこでも歌えるし、仕事も探そうと思えば他にもある。できないことなんか無いと思ったんです。とにかく「ありがとう、辞めます」といろんな人に伝えました。でも、いままでの信頼はそのまま頂いているので、今も何も変わることなく仲良くさせてもらってます。
これからどんなことをやっていきたいですか
お陰様で現役の頃からさせてもらっている、FM京都の『α-Station Sweet'n Marble Lovers』というラジオ番組はもう7年目になります。ゲストをお迎えするコーナーで、難しい経済の話から、精神的なこと、和洋の音楽や舞台など、幅広い方たちをお迎えしてお話を聞かせていただいています。これも芸妓さんをしていたからこそ。いろんな方のお陰様でいろんなことをさせてもらっているので、それを「おおきに」という言葉で、表現していきたいと思っています。

「ありがとう」と言う言葉は、その場の空気が陽化するという話を聞いて、「ありがとう」と言うことって誰でもできることやし、京都人やから「おおきに」という言葉で、みんながほんわかできればいいな、そういうことを広めていきたいなと思っているんです。それは歌でもいいし、ダンスでも京舞でもいい。「ありがとう」「おおきに」という言葉を広げることで、自分も含め皆が幸せになってくれたらいいなと。
まことさんの思う幸せって何ですか? 
「素直に感謝できること」だと思います。それって本人の心がけひとつ。モノをたくさん持っていることが幸せと思う人は、もっとモノがないと幸せに辿りつけないけれど、今自分に与えられたものが、実は幸せなんだと気がつけば不満も無くなります。

幸せになって欲しいと思える相手がいることが、実は幸せだったりもする。そういうことを、私は傷だらけになってやっと気付いたんです。

例えば「あなた、お金1億円持っているんなら、みんなに分けなさい」というのが平等じゃなくて、本当の平等って例えば暑いところの人には冷たいお水、寒いところの人には温かい飲み物を補っていくということだと思います

「ありがとう」「おおきに」ということは誰でも言えること。それで空気が幸せになるんだったら、きっと争いもなくなると思うんです。そう考えると、できることっていっぱいある。それが「幸せ」だと思っています。
ありがとうございました。
 
(取材:2014年11月 関西ウーマン編集部) 
撮影協力場所
『グランマーブル 祇園』 
http://www.grandmarble.com/
〒605-0074京都市東山区祇園町南側570-238 TEL:075-533-7600
営業時間:11:00~20:00(季節により変動あり) 定休日:無休



 

■関西ウーマンインタビュー(アーティスト) 記事一覧




@kansaiwoman


■ご利用ガイド




HOME