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■関西の企業で働く「キャリア女性インタビュー」


白井 文さん(社外取締役・業務執行理事・客員教授・講師)

人からの誘いや依頼を断らなかったことで新しい扉が開けた

白井 文さん
社外取締役・業務執行理事・客員教授・講師
2002年当時、全国最年少の女性市長として尼崎市長に初当選し、2期8年を務めた白井文さん。航空会社の客室乗務員を経て、ご自身で人材育成コンサルティング会社を起業。33歳で尼崎市議会議員、42歳で尼崎市長、現在は社外取締役、業務執行理事、客員教授、講師として活躍されています。

経歴だけを見ると、計画的にキャリアを積み重ねてこられた印象を持ちますが、「人からの誘いや依頼を受けて、選択を重ねてきただけ」「断らなかったことで『新しい扉』が開けました」と白井さん。

その言葉が意味することとは?
人からの誘いや依頼を断らずにきたことで
過去のインタビュー記事で「計画的にキャリアを積んできた」ではなく、「人からの誘いや依頼を受けて、選択を重ねてきただけ」とあり、意外でした。
振り返ると、「誘われた」「頼まれた」「お願いされた」など人からの誘いや依頼を断らなかったことが、今の私をつくったと思っています。自分で道を切り拓いたり、飛び込んだりするタイプではなくて、キャリアのはじまりからそうでした。

高校卒業後に客室乗務員として航空会社に入社したのは、高校の友人に「1人では不安だから、一緒に受けよう」と誘われて入社試験を受けたのがきっかけです。

当時の私は自分が何をしたいのかわからず、親に言われるままに大学に進学しようとしていただけでしたので、採用通知をもらった時、働くことで親から経済的にも精神的にも自立できて、自分を変えるチャンスになるかもしれないと就職することを決めたんです。

客室乗務員として11年ほど働いた後、次は飲食店に特化した人材育成コンサルティング会社を起業しました。

この時も知人から「飲食業界で、女性の社員やアルバイトを指導できる女性が求められている。航空会社での新人指導やチーフパーサー経験を活かして、人材育成の会社を立ち上げてみては?」と提案されたからです。

当時、社内に50代以上の女性の先輩や客室乗務員から管理職になった先輩がいませんでしたから、「この会社では一生涯働けないんじゃないか」との不安もあり、仲間と一緒に起業する道を選びました。
その後、33歳で尼崎市議会議員選挙に立候補し、当選されたのですね。どうして、政治の世界に飛び込もうと思ったのですか?
自分の中で一体何が起きたんだろうと、自分でも不思議に思うくらいなんです。政治にまったく興味がありませんでしたし、まわりに政治家がいたわけでもありません。

ただ1992年に地元・尼崎市の市議会で「行っていない行政視察を行った」ことにして税金を無駄遣いしていたという不正出張事件が発覚し、なんと横行していたとも言うんです。

マスメディアの取材に対して、ある市議会議員が「僕は本当にハチドに行った」と青森県の「はちのへ(八戸)」のことを話していて、「これは行っていないな」と誰もが思ったのではないでしょうか。

こんなふうに嘘をつく人が市議会議員だったことがものすごくショックでしたし、市民運動等によって市議会は解散に追い込まれたにも関わらず、その中から再選をめざして立候補する人もいて「許していたら、いかん!」と怒りがこみ上げてきました。

母に電話で「私みたいな『ふつうの人』でも立候補しないといけないんじゃないかと思うの」と話す一方で、「でも、私じゃないよね。立候補したら街頭演説しないといけないし、落選したら格好悪いもんね」とも言ったら、母が「何が格好悪いんですか。今、市民に問うことが求められているんだからやりなさい」と言われて、「えーっ!!」って。

当時、結婚していた夫からも「立候補してみたら」と背中を押されちゃって。一度、手を上げたけど、誰かがその手を下してくれると期待していたら、みんなに持ち上げられてしまって、あれよあれよという間に立候補してしまいました。

しがらみのない、「ふつうの人」の視点を持つ市議会議員が求められていたから、無所属や初立候補の人たちが当選し、私もその1人になったんです。
ニュースを見て、白井さんと同じように思った人もいる中、実際に「市議会議員に立候補して自分で」と実行される人は少ないように思います。白井さんはどうして、行動に移せたのでしょうか?
「何にでも挑戦しよう」という気持ちを固めていたからかもしれません。

31歳の時に子宮筋腫で子宮を全摘したので、子どもが産めなくなってしまいました。その時はショックだったけれど、過去には戻れないし、子どもを産み育てられないのならば、仕事を頑張るしかない、と。

30代から40代の10年間はいろんなことに挑戦しよう。いろんなことに挑戦すれば、きっと自分のできることやしたいことが見つかるから、40代から60代までの20年間はそれに力を注ごう。

そういう気持ちや覚悟が伏線としてあったからできたのだと思います。
心の奥にあった「想い」に火を付けられて
42歳の時に市長に就任されました。市議会議員を経験して、政治の世界でやりたいことを見つけたのですか?
その逆で、市議会議員を経験したことで、市議会や政治に失望したから、政治の世界を離れようと思ったんです。

市議会というのは数の世界で、1人で活動している無所属の議員は非常に冷たくあしらわれることが多い。2期8年は一所懸命務めたんですが、「ここは私のいる世界じゃない」と3期目は立候補せず、起業した人材育成コンサルティング会社に復帰しました。

まもなく、市議会議員時代の同期から「市長選があるが、現職の市長以外に誰も立候補しない。市長や市役所の在り方に違和感を持ち、市民の手に市政を取り戻したいと語っていた白井さんが市長になって尼崎市を建て直す時が来た」と熱烈な働きかけを受けることに。

とんでもない、政治の世界が嫌になって離れたのにまた戻るなんてと思いました。

それに、相手は市職員出身の2期8年経験した現職の男性市長です。女性、若さ、行政経験、さらには離婚調停中だったから、「家族も幸せにできない者が市民を幸せにできるはずがない」と個人の能力とは関係のないところで、あることないことを言われたり、評価されたりしてしまうのでは、と。

そう話したら、同期から「今、私たちが議論しているのは『尼崎の未来』。白井さんのプライベートなことと、『尼崎の未来』というパブリックなことを一緒に考えないほうがいい」と妙な説得を受けまして(笑)。

最終的にはまわりは私の青くさい正義感みたいなものをよく知っていて、そこに火を付けられてしまったから、「誰かがやらないといけないなら、失うものが少ない私が挑戦しよう」と立候補して、当選させていただいたんです。
2002年に市長に就任されて以降、2期8年に渡って市政に携わり、全国初の2代続けての女性市長を実現されて退任されました。退任したのには、何かお考えがあったからですか?
「誰に、いつ、どんな形でバトンを託すのか」までが、市長の仕事だと考えていました。

まだやりたいことがあるのでやり続けますというのも、自分のしたいことだけをして辞めた後のことは関係ないというのも違うと考えていたから、2期か3期で退任し、「この人なら」という人に託したいと動いていたんです。

だから、自分のことはまったく何も考えていませんでした。まわりから「50歳で辞めて、次は知事ですか?国会議員ですか?」と聞かれましたが、まったくの白紙状態。

退任後まもなくテレビ番組からレギュラーコメンテーターの依頼があって、「私には無理です」と一度はお断りしたのですが、東日本大震災直後で「阪神淡路大震災や市長としての経験を活かして話してほしい」と説得されて、引き受けることに。

さらには、市長時代に地域活動でご協力いただいていたグンゼ株式会社から社外取締役のお話をいただいて、こちらも「私には無理です」と一度はお断りしたのですが、「市長として組織をまとめた経験や女性としての生活者の視点など、素の白井さんがいいんです」とラブコールをいただいたので、引き受けることに。

自分自身の能力や経験不足を理由に「私には無理です」と一度はお断りするものの、断り切れず、現在は4社の社外取締役、一般財団法人大阪府男女共同参画推進団体の業務執行理事、大阪樟蔭女子大学の客員教授などの仕事をしています。

断り切れなかったから、自分だったら絶対に飛び込まなかっただろう世界に飛び込めたんだと思います。自分自身が「自分を最も知らない人」かもしれません。
自分自身が、自分を最も知らない
「自分自身が『自分を最も知らない人』」とは?
たとえば、市長選に声をかけてくれた人たちは、私の中にある想いや青くさい正義感、実行力などに気づいていたから、説得してくれたんだと思います。

自分に自信がないから「私には無理」「もっとふさわしい人がいるのではないか」とためらう気持ちが前面に出て一度は断ってしまうのですが、その奥にはちゃんと「もっと『ふつうの人』が市政に関わるべき」「女性が当たり前に意思決定の場に参画できるようにしたい」といった想いがあったからこそ、「えいや!」と飛び込めた。

他者のおかげで気づけた自分自身、想いがありましたし、飛び込むと新たなやりたいことも出てきました。

「人から頼まれたことを断らない」という選択肢を持つだけで、新しい扉を開くきっかけになるのだと思います。
想いがあっても、その一歩を踏み出すには勇気が必要です。その勇気を、白井さんはどのようにして持つことができたのですか?
人が誘ってくれたり頼んでくれたりすることは「この人だから」と声をかけてくれるもので、本当に無理なことは頼まれないと楽観的に考えるようにしました。もし困ったら、自分からSOSを出す。そうすれば、きっと誰かが助け舟を出してくれると思います。

SOSの出し方の1つとして、「わからない」「知らない」「教えてほしい」と言えることも大事です。経験を積めば積むほどに、いい意味で自負心ができてきて、なかなか言い出しにくくなることもあるのではないでしょうか。

でも、自分で調べたり勉強したりしても、それでは追いつかない、網羅できないことも出てきます。たとえば、私は今、4社の社外取締役を務める中で、それぞれの分野に対して専門的な知識を持っているわけではないので、調べてもわからないことや理解が追いつかないこともあります。

その時は正直に話して教えてもらいます。

自分も、誰かからのSOSを受け取れば、自分が知っていることや思うこと、経験したことをお伝えする。そんなふうに持ちつ持たれつの関係性をつくれるといいのかなあと思います。
近い未来、お仕事で実現したいことは?
社外取締役として、女性がイキイキと活躍できる組織づくりをお手伝いする一方で、一般財団法人大阪府男女共同参画推進団体の業務執行理事として、シングルマザーやDV被害者、性暴力被害者など困難を抱えている女性の支援をしています。

頑張れる女性ばかりではありません。さまざまな困難を抱えていたり、自己肯定感を低く持たざるを得なかったり、さまざまな現実があります。

多くの女性たちが困難を抱える女性たちに共感と寄り添う気持ちを持ってつながると、女性全体が生きやすくなるのではないか。

社外取締役を務めている会社に、財団主催イベントに声をかけるなど、今動いているところです。
profile
白井 文さん
1960年兵庫県尼崎市生まれ。高校卒業後、全日本空輸株式会社に就職し、客室乗務員として11年間勤務する。退職後、人材育成コンサルティング会社を起業。1993年から2期8年間、無所属の尼崎市議会議員を務める。3期目は出馬せず、人材育成コンサルティング会社に復帰するも、2002年に尼崎市長選に出馬。同年12月に全国最年少女性市長(当時)として尼崎市長に就任した。2010年の市長選には出馬せず、同年12月で任期満了。現在はグンゼ株式会社、ペガサスミシン製造株式会社、住友精密工業株式会社、三洋化成工業株式会社の4社で社外取締役、一般財団法人大阪府男女共同参画推進財団業務執行理事、大阪樟蔭女子大学客員教授を務めるほか、「女性の力を社会に活かす~市長を二期務めた経験から~」「ピンチはチャンス 課題に目をそむけない・自らを勇気づける力」といったテーマで講演活動を行っている。
(取材:2018年10月)
editor's note
白井さんにとって岐路に立つきっかけをつくってくれたのは「他者」だったかもしれませんが、その時々で選択されてこられたのは白井さんご自身です。「他者」によって自分の中にあった自立心や正義感、想いなどがより明確になり、それを活かせる方向へと向かってこられたのだと思います。

自分に自信が持てないと、「私には無理」「もっとふさわしい人がいるのではないか」とためらってしまうものです。そのためらう気持ちが、自分の想いや能力などを隠してしまうこともあるのではないでしょうか。

また、学生のうちから「目標は?」「どんなキャリアを?」と求められますが、明確な人もいれば、明確でない人もいます。明確ではなくても、その人自身の想いや価値観はあるもので、ただ具体化していないだけのこともあるのではないでしょうか。

そんな時「自分から進んで何かを」とはなれなくても、白井さんのように他者がチャンスをもたらしてくれることがあります。「人から頼まれたことを断らない」という選択肢が、自分の中にある想いに気づかせてくれたり、自信を持たせてくれたり、新しい扉を開くきっかけになったりすることがあるのだ、と。「自分自身が『自分を最も知らない人』」という白井さんの言葉が響いてきます。
小森 利絵
編集プロダクションや広告代理店などで、編集・ライティングの経験を積む。現在はフリーライターとして、人物インタビューをメインに活動。読者のココロに届く原稿作成、取材相手にとってもご自身を見つめ直す機会になるようなインタビューを心がけている。
HP: 『えんを描く』

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