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■関西・祈りをめぐる物語


[第七回]奈良県田原本町 唐古・鍵遺跡 文化財保存課長 藤田三郎さん

先月から始まった、卑弥呼を探す旅。
2回目は奈良県田原本町の唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡。邪馬台国の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡の前身として、研究者をはじめ、考古学ファンから注目を集める西日本最大の弥生時代の遺跡です。

弥生時代、奈良盆地の中心として最も栄えていた唐古・鍵遺跡。
唐古・鍵遺跡の時代から移り変わるように、突然あらわれた纒向遺跡。
邪馬台国・近畿説を考えるなら、卑弥呼の居場所を解くカギは、この二つの遺跡にあるははずです。

もし仮に、卑弥呼の王宮が纒向遺跡にあったとすれば、女王になる前の卑弥呼はどこにいたのでしょう。女王としての資質をどこで身につけたのでしょうか。そのヒントを探すべく、「唐古・鍵考古学ミュージアム」を訪ねました。

まずは、唐古・鍵遺跡についてご紹介ください。

唐古・鍵遺跡は奈良盆地の中央部に位置する、弥生時代を代表する環濠(かんごう)集落跡です。環濠というのは、集落の周囲に濠(みぞ)をめぐらすもので、何重もの大規模な濠をもつのが、この遺跡の特徴の一つです。

奈良県の弥生遺跡は約600遺跡ありますが、400以上が奈良盆地に密集しています。ただ、400以上ある遺跡のうち弥生時代前期から後期までの700~800年間、途切れずに集落が続いているのは11遺跡しかありません。その中でも唐古・鍵遺跡は最も規模が大きく、ヤマト(大和)地域のリーダー的な存在だったと考えています。

遺跡の面積は約42万平方メートルで、甲子園球場10個分が入る広さです。また、周辺には分村のようにいくつもの小さな遺跡があります。わたしは唐古・鍵遺跡を中核として、周辺の集落とも連携していたと考えています。唐古・鍵の集落で様々な生活道具が生産され、周辺の集落に供給されるシステムができていた。そう考えると、これら周辺集落を含めて「唐古・鍵遺跡群」と認識でき、その規模は西日本でも最大級といえます。

また、遺跡のシンボルとして唐古池の隅に楼閣(ろうかく)を復元しています。平成4年の調査で、楼閣を描いた絵画土器が出てきました。土器に描かれていたのは、渦巻き状の屋根飾りを付けた二階建て以上の建物で、日常の建物ではなく、おそらく宗教的な建物だったと考えられています。この絵画土器が出たときは「邪馬台国か?」とニュースなどで大きく取り上げられ、この遺跡の認知度が上がりました。

弥生時代というと、登呂(とろ)遺跡のように竪穴住居や高床建物があって、水田の広がる牧歌的な農村のイメージがありました。ところが楼閣の絵画土器が出たことから、弥生時代にもこういった建物のある大きな都市的な集落もあることがわかってきたのです。

唐古・鍵遺跡の濠(みぞ)は何重にもめぐらされていたということですが、
何か特別な意味があるのでしょうか?

中国の史書、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)によると、卑弥呼が登場する前に倭国の乱があった、とあります。弥生研究の当初は、弥生時代後期は争乱の時代で、環濠は防御のためと考えられていました。

ただ唐古・鍵遺跡を調査して思うのは、この場所は盆地の中央部にあって常に洪水の危機にさらされている状態なのです。居住区の周りに幅8メートル、深さ2メートルの大きな環濠が最初に造られ、その後、外側に何重にも環濠が造られていきます。洪水から集落を守る方法として水を迂回させて下へ流していく、おそらく排水も目的の一つだったと考えています。

また、環濠はどこかで自然の川ともつながっていますから、川から船でさかのぼって集落の中に入る、いわゆる運河的な機能も果たしていたと考えられます。北九州や瀬戸内から東に向かった場合、大阪の河内湖、さらに大和川をさかのぼって最後に辿りつくのがこの場所なのです。奈良盆地の中央にありますが、水上交通からいうと唐古・鍵遺跡は港町のイメージです。船を利用して多くの物資が運ばれ、盛んな交易が行われていました。

もう一つ、わたしは環濠のもつ精神部分にも注目しています。これほど大規模な環濠を掘って、人々は集落を維持しているわけです。自分たちはこの囲まれた中に住んでいるという共同・連帯意識、集団としてのまとまりをもたせる機能もあっただろうと思います。

(画像提供:唐古・鍵考古学ミュージアム 唐古・鍵遺跡の想像復元図)

大規模な環濠、また港町として機能、あきらかに他の集落との違いを感じます。
集落の中はどのような様子だったのでしょうか?

ミュージアムなどで解説するときに、よく「ここは物作りの集落です」と説明しています。集落内には、さまざまな工房がありました。木器、石器、土器、織物など日常の生活道具はもちろんですが、ここでは青銅器の工房跡も見つかっています。

弥生時代で一番技術が高いのは青銅器を作る技術です。唐古・鍵遺跡では、農耕儀礼の祭器といわれる銅鐸(どうたく)を大量に作って配布していました。当然、何か別のものと交換していたでしょうが、政治という観点からみれば、唐古・鍵の政治的なものが他の地域集落に及んでいる可能性も考えられます。青銅器の生産という点から見ても、唐古・鍵遺跡は他の集落を大きく引き離した存在で、おそらく近畿地方のトップだったと思います。

また、唐古・鍵遺跡では大和の近隣地域との交易だけでなく、遠方との交易もおこなっていました。唐古・鍵の位置は、ちょうど西の文化と東の文化が混ざり合う場所だと考えています。西は北九州や瀬戸内、東は愛知県の天竜川や信濃と、広い範囲から土器や生産物が運ばれていました。遠方から価値のある物資がたくさん入ってくるということは、この集落がそれに見合うものを作っていたということです。

たとえば、ミュージアムに展示している石の矢じり一つとっても、他の遺跡にあるものと同じように見えるかもしれませんが、実は違います。作り方が非常に精巧というか、全ての品質が高いのです。青銅器を作る技術もそうですが、それだけの技術者たちが、それぞれの専門性をもってこの集落にいたということです。もちろん700年以上継続した集落ですから、しっかりと技術者を育てる、技術の継承が行われていたことも想像できます。

高い技術力と、技術の継承、とても興味深いお話です。
唐古・鍵遺跡は、絵画土器も非常に多いとお聞きしています。

唐古・鍵遺跡は楼閣の描かれた絵画土器が有名ですが、それ以外にも絵画土器がたくさん出ています。この遺跡で約350点、分村とされる隣の清水風遺跡で約50点が出土し、その総数は全国の絵画土器の半数以上になり、群を抜いた存在なのです。

絵画土器は祭祀(さいし)の場で使われていましたから、船や人物、鹿、鳥、魚、スッポンなど、信仰の対象になっているものだけが描かれていたようです。一番多いのは鹿と魚で、これは地霊と水霊、つまり農耕儀礼と非常に関係の深いものです。人物では、生命の再生を表す両手をあげた女性のシャーマン、盾と戈を持つ男性のシャーマンなども描かれています。

絵画土器が多いということは、それだけこの集落で「まつりごと」が盛んに行われていたことを意味します。逆説的に考えれば、唐古・鍵遺跡が日本列島の中でも最も中心的な集落であったと考えることができます。

弥生時代中期は絵画土器が盛んに作られましたが、弥生時代後期になると記号の描かれた土器へと変遷し、記号土器が増えてきます。絵画で描かれていたものがどんどんシンボル化され、記号に変わっていくのです。直線、曲線、点などの記号が体系化されていきますが、重要なのはそれらの記号をきちんと理解して使っていたという点です。

もし日本に漢字が伝わらなかったら、このような記号が文字になっていたのではないかとおっしゃられている研究者もおられます。文字のない時代に、この集落の人々は記号を読み解く能力を備えていた。いわゆる当時の識字率というか、教育的な水準の高さが伺えます。

(画像提供:唐古・鍵考古学ミュージアム 記号土器 / 弥生の記号分類図)

非常に多くの「まつりごと」が行われていたことがわかります。
その他、大陸から伝わった祭祀、「祈り」のかたちなどもあるのでしょうか。

唐古・鍵遺跡ではヒスイ勾玉(まがたま)が納められた褐鉄鉱(かってっこう)*容器が見つかっています。中の粘土を取り出し、最上級・最大級のヒスイ勾玉2点を入れて土器のかけらで蓋をして埋納されていました。唐古・鍵の「富」的な存在ですが、このヒスイの緑色と勾玉の形は生命の象徴を表しているのでないでしょうか。そして、大事なのは中に入っていた粘土です。

中国では、褐鉄鉱の中の粘土は禹余粮(うよりょう)と呼ばれ、不老長寿を理想とする道教(神仙思想)の薬とされていました。つまり、中国の道教の思想が入っている可能性が非常に高いのです。物や技術だけでなく、中国から伝わる精神文化、宗教的なものまで理解して受け入れていたと考えることができます。

ただ、この中国的な宗教に関しては、おそらく支配者層が取り入れていたのではないかと考えています。集落を維持するには、人々を束ねて首長自らがシンボルになっていく必要があります。宗教というのは政治的な部分もありますから、宗教を取り仕切ることは非常に重要です。そういうことも、この褐鉄鉱から読み解くことができます。

*良質な粘土の周りに鉄分が凝縮してできた自然の鉱物

最後に、唐古・鍵遺跡と卑弥呼の関係ですが・・・・・・。
唐古・鍵遺跡の後に、卑弥呼の王宮ともいわれる纒向(まきむく)遺跡が出現します。
女王に共立される前の卑弥呼が、この唐古・鍵遺跡で育ったと考えることはできますか?
纒向遺跡との関係も含めて、考古学的立場からのお考えをお聞かせください。

纒向遺跡は、突然現れた政治的な集落です。弥生集落が密接するヤマトの地域で、空白の部分に纒向遺跡が作られます。卑弥呼は共立された女王ですから、纒向遺跡の成立に吉備や山陰など他の地域勢力が関わっているのは確かでしょう。ただ、外からの勢力が突然やってきて、この地域に入れるかというと、それは厳しいと思うのです。

纒向遺跡が作られる前は、奈良盆地のトップとして唐古・鍵遺跡がありますから、ヤマト地域の首長層がここに纒向遺跡を作ろうという意志を示さなければ、まず無理です。そういう意味では、唐古・鍵あっての纏向だろうと考えています。

邪馬台国・近畿説をとって、纒向遺跡に卑弥呼がいたということになれば、卑弥呼はどこで生まれたのか、どこから来たかが問題になります。考古学の場合、一個人に焦点を当てるのは非常に難しく、なかなか答えにくい部分ですが、敢えて推察するならば、卑弥呼が幼少の時には纒向遺跡はまだ成立していません。ですから、その少し前の唐古・鍵遺跡にいたと考えてもいいのではないか、と思っています。

唐古・鍵遺跡の発掘調査は全体の1割にも満たないので、この遺跡にはまだまだ未知の部分がたくさんあります。集落の中で支配者層が住んでいた場所を掘り当てれば、確実な卑弥呼像が見えてくるかもしれません。

考古学では出土した一つひとつではなく、全体像を見ることも大事です。さまざまな断片を読み解いて、繋げていくわけです。すべてはわかりませんから、1とか2からどんどん積み上げて推理して考察していくのが考古学の面白さです。全体をみれば、また違うものが見えてきます。
「推理して考察して全体をみれば、また違うものが見えてきます」
思慮深く、そして熱く語って下さった藤田さんのお話を聞きながら、私の中の疑問がするすると解き明かされたような気がしました。

非常に高い文化と精神性をもつ唐古・鍵遺跡。
大陸からの道教の思想や農耕儀礼の「まつりごと」の多さは、「祈り」の水準の高さを意味しています。若かりし頃の卑弥呼が唐古・鍵遺跡にいたと考えれば、女王としての資質を身につけるのに、これほどふさわしい場所はありません。

また、卑弥呼が非常に優れた巫女だったとしても、一人では女王になれませんから、彼女を支える人々や周囲の環境もあったはずです。唐古・鍵遺跡にさまざまな技術者の集団がいたように、この集落には深い知恵と知識をもった「祈り」や「政治」を担う人々も存在していたことでしょう。

遠方との交易も盛んだったことを考えれば、吉備や出雲など他の地域の王や皇子たちとの接点もどこかであったかもしれません。物語をふくらませていくと、当時の唐古・鍵の集落の風景や人々の暮らしぶりが、躍動感をもって色あざやかに甦るような気がします。

小学校の出前授業で、「今は東京が日本の首都ですが、弥生時代の首都は唐古・鍵遺跡だったんですよ」と、話されているという藤田さん。地元の子どもたちに、自分たちの住む町にこんなにすごい遺跡があることを知って欲しい。人生の大半をこの遺跡の調査・研究に費やしてこられた藤田さんならではの、唐古・鍵遺跡に対する深い考察と愛を感じた今回の取材でした。

次回は、女王になった卑弥呼の居場所、「祈り」のかたちを探して、唐古・鍵遺跡から約5キロ上流に位置する纒向遺跡を訪れたいと思います。
奈良県田原本町教育委員会・文化財保存課長 / 藤田 三郎さん
1957年奈良県生まれ。同志社大学大学院文学研究科修士課程修了。長期にわたって唐古・鍵遺跡の調査を担当し、遺跡を総合的にまとめる第一線の研究者。主な著書に『唐古・鍵遺跡』(同成社)、『唐古・鍵遺跡の考古学』『古代「おおやまと」を掘る』『日本の考古学』『ヤマト王権はいかにして始まったか』(以上共著、学生社)などがある。現在、奈良新聞にて「唐古・鍵遺跡学事始め」を連載中。
唐古・鍵考古学ミュージアム
唐古・鍵遺跡は発見から100年以上にわたって調査が続けられている、日本を代表する弥生時代の遺跡。1999年に国史跡に指定され、2004年に田原本青垣生涯学習センター2階に唐古・鍵考古学ミュージアムが開設された。ミュージアムでは、唐古・鍵遺跡の出土品を中心に、田原本の考古資料が展示されている。

平成29年9月1日~平成30年5月31日までリニューアルのため、休館予定。平成30年4月開園予定の唐古・鍵遺跡史跡公園との連携を図り、唐古・鍵遺跡の新たな魅力を発信するための展示構成を目指す。

〒636-0247 奈良県磯城郡田原本町阪手233-1
HP:http://www.karako-kagi-arch-museum.jp/
近鉄橿原線・田原本駅から徒歩20分
近鉄田原本線・西田原本町駅から徒歩20分 
京奈和自動車道「三宅IC」から約10分。駐車場(無料)あり。

【開館時間】9:00~17:00(入館は16:30まで)
【観覧料】一般200円、高校生・大学生100円、15才以下は無料
【休館日】毎週月曜日(月曜日が休日の場合は翌日)
唐古・鍵遺跡史跡公園 ~よみがえる弥生の風景
平成30年4月開園予定。弥生時代の大環濠集落遺跡という特色を生かして、弥生時代の「風景」の再現を目指すとともに、弥生時代の「出来事」を体験・学習できる場として整備が進められている。発掘調査の成果に基づき、集落を囲んでいた環濠の復元や大型建物跡の立柱表現、弥生時代の植生の再現などをおこなう。また、弥生時代の暮らしを体験学習できる場や野外活動やイベントを想定した広場、唐古・鍵遺跡が学べる遺構展示情報館を設置予定。
※写真および画は田原本町・文化財保存課のご協力により掲載させていただいています。
 無断転用を禁じます
(取材:2017年1月)
取材:中島 未月
五行歌人/詩人
心をテーマにした詩やエッセイ、メッセージブックなどを執筆。 著書は『心が晴れる はれ、ことば』(ゴマブックス)、『だいじょうぶ。の本』『だから優しく、と空が言う』『笑顔のおくりもの』(以上、PHP研究所)など多数。現在、「古代」「祈り」をテーマに、新たなフィールドの物語執筆に向けて準備中。
公式HP:http://nakajimamizuki.com/

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