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藤田 由布
婦人科医 レディース&ARTクリニック サンタクルス ザ ウメダ

婦人科医が言いたいこと 医療・ヘルシーライフ 2023-03-16
女32歳、ヨーロッパの医学部に入学
その⑩〜いよいよラストスパート!日本の医師国家試験へ挑む〜

32歳で医学部に入学して、6年間の医学部をストレートで卒業。やっとこさの思いでヨーロッパの医師免許を取得。

厳かで盛大な卒業式では、嬉しい思いは半分。式の最後に正装帽を頭上に投げ打った時は、感慨深い思いで無意識に涙が出た。

医師になったんだ。ちゃんと医師免許が取れたんだ、、、

しかし、安堵感で満たされたのも一瞬、ここから更なる試練が待っていた。
日本の医師免許は取得できるのか?
日本の医師免許を取得するためには、必ず全員どんな経歴であれ、日本の医師国家試験を受験して合格しなければならない。

海外のどんな凄腕キャリアの医師でさえ、日本の医師免許がなければ日本国内で医療行為をしてはならないのだ。

ならば海外から帰ってきた日本人はどうか。海外の医学部出身の日本人は誰でも日本の医師国家試験を受験できるかというと、そうでもない。

日本の医師免許を取得するには、日本人でも外国人でも、海外の医師免許をすでに所得しているかどうかは当然のこと、さらに、その医師免許と出身医学部の大学が日本の医学部と比べて同等の質と条件を満たしているということが重要。

あと、海外のどの医学部でも日本の医師国家試験を受験できるかというと、そうでもない。概ね、途上国の医学部出身者は、日本の医師国家試験受験資格を得れる確率は低い。

※卒業式の翌日にハンガリー医師会の証明写真を撮影。卒業まで全力投球したせいで疲労が蓄積… 写真の顔が疲れ過ぎてやつれてる…
日本のような前例主義を重んじる国において、その大学医学部出身者の誰かが日本医師国家試験をちゃんと合格して、ちゃんと医師として日本で仕事できているか、という前例は重要な判断材料である。

海外の医学部の授業時間は日本厚労省の規定内かどうか。その医学部の施設レベルは日本の基準を満たしているか等々。

日本の厚労省における医学部の授業時間の規定は4500時間以上とあった。ハンガリーのデブレツェン大学の授業時間は6051時間だったのでクリア。そのほか、大学病院施設の病床数や専門医数など、ほかにも審査の基準は無数にあった。

デブレツェン大学病院は2014年時点で、床数計1800床、年間入院患者数62,000名、年間外来患者数670,000名、院内49 学科局+18 臨床医局(透析センター、開胸手術施設、腎移植unit等含)、郊外小都市に研修指定病院が10病院、等々も基準を満たしていた。

※デブレツェン大学医学部の卒業証書
3週間で全ての公文書をかき集めた

※デブレツェンの街の中心地
6月20日の卒業式が終わってから嵐のような日々だった。

最短で日本の医師国家試験の受験資格を得るためには、厚労省に全ての書類を7月31日までに提出しないといけない。

ハンガリーで取得した医師免許の証明だけでは全く足りない。

大学医学部のカリキュラム、取得科目と単位数と全ての成績、施設が基準に満たしているかを含めた証明公式文書、教育省と厚労省の大学の法律公式文書、謄本認証、外務省による外交公文書認証(アポスティーユ)、全ての書類の公式翻訳など、気が遠くなる書類の束を準備しなければならない。

日本での作業量も考えると、少なくとも7月中旬までには日本に帰国して、すぐに厚労省で書類が足りているかを確認しに行かないといけない。

卒業式から日本帰国までの猶予期間は、たったの3週間。間に合うのだろうか…

唯一の日本人同級生のケイ君と、卒業式の翌日から毎日のように首都ブタペストに通って、教育省・厚労省・外務省に通い、その他にも医師会や警察署へも証明書をもらいに行かないとならない。

※5年生の時にまぶたちマッチーがハンガリーまで遊びにきてくれた(2013年ブタペスト)
公式文書の翻訳だけで、17万円也

※東京港区の三田にあるハンガリー大使館
卒業式の翌日から書類集めのためだけに首都へ4時間かけて5回も通い、帰国の前日までハラハラしながら、日本の厚労省が書類を受領してくれるか不安でいっぱいだった。

これで足りているのだろうか。不十分だと突き返されて、日本の医師国家試験を受けることが出来なくなってしまわないか。

必死で公式文書をかき集め、なんとか日本に帰国したが、次は日本での工程が待っていた。

100枚ほどある書類を全て公式翻訳に依頼しなければならない。7月31日の締め切りまでタイムリミットは2週間。

公式翻訳には17万円かかった。

ギリギリの7月25日に厚労省に書類の束を提出しに行ったが、1枚の書類の裏面にハンガリー語で印鑑が押されていて、その印鑑に書かれた文字の翻訳が抜けていたのだ。

書類は全て突き返された。間に合わないかも・・・

その足でハンガリー大使館へ駆け込み、頭を下げて、抜けている印鑑に書かれた文字の翻訳を依頼した。「今日は担当者がいない」と言われたが、泣きそうに焦る私を気の毒に思ったのか、翌日には仕上げるからと慰めてもらい、胸を撫で下ろした。

締め切りの前日の7月30日に、厚労省で無事に書類を提出でき、面談も終え、あとは承認されるかどうかの結果発表待ち。

1ヶ月後の9月上旬に、書類の関門はクリアしたと通知がきた。
診療能力試験が必須

※診療能力試験の試験会場の東京医科歯科大学

※診療能力試験に向けて役に立った参考書
海外の医師免許を日本に持ち帰ったとて、すぐさま「日本の医師国家試験受けたら免許あげるよ」とはいかない。

厚労省で個人審査をパスしたあと、次なる試練は「診療能力試験」にパスしなければならない。

「診療能力試験」とは、模擬患者を相手に適切に問診をとり、診察をして所見と検査項目、その評価や考察をカルテに手書き記載し、さいごに試験官から口頭試問を受ける流れだ。

受験中の一部始終をビデオに撮られながら、計3名の模擬患者を相手にぞれぞれ20分間ずつの試験だった。待ち時間もあわせて丸1日かかった試験で、終わった後は疲労マックスだった。

私があたった模擬患者は、深部静脈血栓症、更年期障害、胃潰瘍だった。

本物の患者っぽい演技をしている模擬患者たちは、役者なのか、大学の職員さんなのか、どうやって採用されたのだろうと不思議だったが、どの模擬患者も演技が上手だった。
国家試験の勉強期間は、たったの3カ月
診療能力試験を受けたのが10月。この結果次第で日本の医師国家試験が受験できるかが決まる。

11月5日に書留で合格通知が来た。安堵感に包まれたが、ここからがようやくスタート。

医師国家試験は2月7、8、9日。あと、3ヶ月しかない。

今から考えても背筋が凍る思いである。ここまで命懸けで頑張ってガリ勉生活に耐えてきたのである。落ちるわけにいかない。何としてでも国家試験に合格せねば、、、こんな思いで受験勉強はラストスパートを切った。

長年のハンガリー生活から日本に帰国したことを誰にも言わず、誰にも会わず、ずっと勉強した。1日18時間、起きている時はずっと机にかじりついた。

このガリ勉期間はあまりにも壮絶な時間だった。今となってはこの辛い期間の記憶をほとんど抹殺してしまったので、あまり思い出せない。

ハッキリ覚えているのは、国家試験の1週間前に、シリアでイスラム国に拘束されたジャーナリストの後藤健二さんが殺害されたニュースにひどく動揺してしまい、その日は勉強に集中できなかったことだ。
日本の医師国家試験は、3日間で500題

※国立国際医療センターの狩野先生が真っ先にお祝いをしてくれた
国家試験は3日間。

海外の医師免許を取得して日本の医師国会試験を受ける者は、試験会場の一番端の2部屋ほどに配置された。

私の受験した部屋には50名ほどいたが、その半分以上は韓国人か中国人で、残りは世界のあちこちから帰ってきた日本人受験生だった。

1日8時間ほど莫大な量で、3日間で計500題の試験は長くて苦しかった。

試験が終わると同時に受験生らが「あの問題の解答は何だと思う?」の会話が繰り広げられたが、心がガラガラに揺れるといけないので、必死に聞こえないように意識をそらした。

医師国家試験の合否はネットに受験番号が掲載される。

怖くて見れなかったので、別府の大学で教鞭をとっている友達の博美ちゃんにネットで合格を確認してもらった。
さいたま赤十字病院で研修医

※さいたま赤十字病院で初期研修。同期の9人は本当に素敵な仲間だった
2015年3月18日に医師国家試験の合格通知が届いた。急いで引っ越し作業を終えた。

4月1日から2年間の初期研修が始まった。

私以外の同期は24〜25歳の9人で、皆んな優秀で優しくて素敵な仲間だった。ひと回り以上年上の私にも仲良くしてくれて、友達のように接してくれて有難かった。

同期のほとんどが医師の親を持ち、温かい家庭で育った素直で性格の良い立派な子たちだ。

※同期のさとい君の結婚式は同期みんなでお祝いした(2016年)
しかし、若い医師というのは、時折悪しき習慣をそのまま身につけてしまう生き物だ。

院内の研修医だけの部屋でカルテを見ながら「おー、この患者まだ生きてのんかよー」って言っている姿に憤りを感じたりもした。きっとコイツの本心ではないだろうが、先輩医師の真似をしてイキってホザいているだけなのだろう。

研修医として産婦人科をまわっている時に、5年目の産婦人科の若手男性医師の醜い診療態度を目の当たりにして、私は「こんな奴に女性の診療を任せてたまるか」と、目に焼き付けたことをいまだに覚えている。

流産手術の最中に「痛い、痛い」と叫んでもがく女性に対して、その患者の膝をパンっと叩いて「うるさい!痛いと言うな!」と言い放ったあの医師を私は絶対に忘れない。

私もたいがい育ちの悪い大阪河内のオバハンである。口は悪いし、鼻息も荒い熱血タイプだ。ただ、流産手術で痛みを堪える女性に対して、身体的な痛みを緩和し、精神的な痛みを理解できる医師であらずして、女性診療を施す資格はない。

私は、救うべき女性に対して全力で診療に挑む姿勢は誰にも負けてたまるか、と研修医時代に誓った。

私は、今、大阪梅田のレディースクリニックで産婦人科医として勤務している。

日本の女性の健康を守りたい一心で、今日もなお鼻息荒く奮闘している。   
〜完〜

※看護師の美穂ちゃんと一緒に立ち上げた「さいたま赤十字病院ゴスペル部」2016年
profile
全国で展開する「婦人科漫談セミナー」は100回を超えました。生理痛は我慢しないでほしいこと、更年期障害は保険適応でいろんな安価な治療が存在すること、婦人科がん検診のこと、HPVワクチンのこと、婦人科のカーテンの向こう側のこと、女性の健康にとって大事なこと&役に立つことを中心にお伝えします。
藤田 由布
婦人科医

大学でメディア制作を学び、青年海外協力隊でアフリカのニジェールへ赴任。1997年からギニアワームという寄生虫感染症の活動でアフリカ未開の奥地などで約10年間活動。猿を肩に乗せて馬で通勤し、猿とはハウサ語で会話し、一夫多妻制のアフリカの文化で青春時代を過ごした。

飼っていた愛犬が狂犬病にかかり、仲良かったはずの飼っていた猿に最後はガブっと噛まれるフィナーレで日本に帰国し、アメリカ財団やJICA専門家などの仕事を経て、37歳でようやくヨーロッパで医師となり、日本でも医師免許を取得し、ようやく日本定住。日本人で一番ハウサ語を操ることができますが、日本でハウサ語が役に立ったことはまだ一度もない。

女性が安心してかかれる婦人科を常に意識して女性の健康を守りたい、単純に本気で強く思っています。

⇒藤田由布さんのインタビュー記事はこちら
FB:https://www.facebook.com/fujitayu
レディース&ARTクリニック サンタクルス ザ ウメダ 副院長
〒530-0013 大阪府大阪市北区茶屋町8-26 NU茶屋町プラス3F
TEL:06-6374-1188(代表)
https://umeda.santacruz.or.jp/

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