パリ十区サン=モール通り二〇九番地 ある集合住宅の自伝(リュト・ジルベルマン )
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![]() 場所に住みついていた記憶を浮かび上がらせるマイクロヒストリーの力作 パリ十区サン=モール通り二〇九番地
ある集合住宅の自伝 リュト・ジルベルマン (著), 塩塚 秀一郎 (翻訳) 本書は、ナチ・ドイツ占領下のパリで、ある集合住宅から連れ去られたユダヤ系の子どもたちとその家族の来し方行く末を追ったテレビ映画「パリ10区、サン=モール通り209番地の子供たち」(2018年)の取材過程や調査の詳細がふんだんに盛り込まれた、非常に読みごたえのある本です。
著者のリュト・ジンベルマンさんはフランスの映像作家、文筆家です。フランスやアメリカの大学で歴史、文学を学び、映像の世界へと進みました。 彼女はポーランド系ユダヤ人の子孫で、母は強制収容所からの生還者です。父は拘束を免れたものの、近所の友だちが収容所に移送されたことをずっと気にしていました。 ある日、強制収容所に移送された子どもたちの分布を示すインターネット上の地図にその少年の名前を見つけたジンベルマンさんは、ユダヤ系の人たちが暮らしていたどこかひとつの家屋を「くまなく探検して」、そこでどのような日常が営まれていたのかを明らかにしようと思い立ちます。 上記の地図からいくつかの住所を書き出して、その場所を運任せに歩き回っていたある日、彼女は気づくとサン=モール通りのはずれを歩いていました。とくになんということもない、「どこにでもある通り」ですが、209番地の集合住宅の中庭に入ったとたん、彼女は「ここだ」と感じます。それから何年もかけて、この集合住宅と元住民の調査を進めていきました。 このように、ごく小さな単位の歴史を集中的に調査したり記述したりする手法をマイクロヒストリー(ミクロストリア)と呼びます。 さて、上記のインターネット地図のサン=モール通り209番地には、9人の子どもたちの名前と年齢が記されています。一つの集合住宅の子どもだけで9人というのは多いようですが、「驚くべき数字でもない」そうです。というのも、209番地は中庭をロの字型に囲む4棟の建物からなっており、300人余りが住むことのできる大きな建物だったからです。そして、このあたりには、1920年代から30年代にかけて東欧からのユダヤ人移民が多く住みついていたからです。 ジンベルマンさんの調査は、この集合住宅の成り立ちに始まり、公文書館の住民調査記録によるかつての住民の職業や家族構成の確認、警察の資料室での公文書の閲覧、当時の新聞の三面記事の収集、電話帳での検索など、さまざまな手段を通して進められます。ある姓を持つ人々に手あたり次第手紙を出して情報を募ることもありました。調査対象者が移住したオーストラリアに広告を出したところ、現地の歴史研究者から回答を得られたこともありました。 そうして元住民やその子孫、親戚たちを見つけて話を聞いていくと、さらなる事実や関係者の存在が判明していきます。そのたびに209番地での人々の営みが浮かび上がってきます。当時の記憶はないという人が同地を訪れて記憶を蘇らせることもありました。 著者が核となって繋がりを得たかつての住民やその子孫たちが209番地に集合し、記憶を確認していく場面は本書のクライマックスです。この場所が、この建物が残っているからこそ実現した再会と新しいコミュニティの出現に感じ入りました。 それにしてもフランスの徹底した資料保存と公開っぷりには驚きの連続でした。パリは占領も解放も無血で済んだということもあるでしょうが、住民台帳、選挙人名簿、警察が管理する外国人入居者の身分証記録、建物の設計図等々がきちんと保存され、閲覧に供されています。兵役登録カードなどは、ほとんどがインターネット上でも閲覧できるとのこと。歴史資料の保存と活用の水準の高さに脱帽です! 同様に探索過程が面白い本として、『バイエルの謎』『バイエルの刊行台帳』、『HHhH』、『彼女はマリウポリからやってきた』、『やちまた』などを過去記事でご紹介しています。そちらもぜひどうぞ。 パリ十区サン=モール通り二〇九番地
ある集合住宅の自伝 リュト・ジルベルマン (著), 塩塚 秀一郎 (翻訳) 出版社 : 作品社 (2024年) 東欧からのユダヤ系移民たちや貧しい人びとが数多く住むパリの集合住宅は、ナチス占領下の困難な時代をいかに乗り越えたのか。ヴィシー政権下の1940年代前半を中心に、1840年代に遡る建物の完成から21世紀の現在に至るまで、この集合住宅に生まれ、暮らし、消えていった名もなき無数の人びとの物語を丹念に紡ぎだす、唯一無二の歴史ドキュメンタリー。 出典:amazon ![]() 橋本 信子
大阪経済大学経営学部准教授 同志社大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程単位取得退学。専門は政治学、ロシア東欧地域研究。2003年から初年次教育、アカデミック・ライティング、読書指導のプログラム開発にも従事。共著に『アカデミック・ライティングの基礎』(晃洋書房 2017年)。 BLOG:http://chekosan.exblog.jp/ Facebook:nobuko.hashimoto.566 ⇒関西ウーマンインタビュー(アカデミック編)記事はこちら |