丁寧に生きるという選択
ライフスタイル 2021-08-11
心理カウンセラーのバックグラウンドをいかし、英会話講師として「コミニケーションレッスン」を展開中。 半生を英国、ヨーロッパのライフスタイルに関わってきたことから、それらの経験をもとに独自のレッスンを提供している。「五感+plus」を使ってコミュニケーション能力を磨くレッスンは、本格的英国サロンで行われている。
RumiBaxter
BROG:http://ameblo.jp/rumi-b/
私たちが「生きる」中で、たくさんの選択をしています。 その選択は、意識したものから無意識に選んでいるもの、とるに足らない小さな選択から人生の岐路に立たされた大きな選択まで、その種類も様々。「丁寧に生きる選択」というライフスタイルは、未来へのキーワードでもあります。
つむぐ、つなげる |
皆さん猛暑の8月をいかがお過ごしでしょうか。冷房の効いた部屋で各地での山火事のニュースを聞きながら、いくつもの現実が混じり合わない、皮肉なまでのパラレルワールドの中で、私は結局は自分の現実だけを現実として受け止めているのか、と思い知らされます。
これを書きながらも、「スポーツのお祭り」の騒ぎの終わった後の現実に、日本はいったいどう目を向けるのだろうか、と考えずにはいられません。 良くも悪くも、喉元過ぎれば熱さを忘れるのも人間の習性であり、同時に前進するために必要な強さなのでしょうか。
そんな中、今月8月1日 サステナブルな事業の一環として、箕面市に芸術文化活動を支える施設「文化芸能劇場」がオープし、左手のピアニスト、智内威雄(Takeo TCHINAI)氏のリサイタルがオープニングイベントとして催されました。
ホールのある箕面市船場地域は、繊維の街として栄えたところです。「紡ぐ、繋げる」という劇場のモチーフは、芸術、舞台芸術は決して一本の糸だけでなく、まるで幾つもの糸が複雑に交差し絡み合うようにして存在するという、芸術の本質を示すかのようです。
片手だけで演奏されるピアノの楽曲は、まだ馴染みのないジャンルかもしれません。音が少ないということはどういうことなのかと考えさせられます。
もちろん、複雑に左腕がまるでダンスを舞うように奏でられる楽曲の中には音が少ないことを意識しないどころか、大変複雑なものも存在するのですが、当日のコンサートでは、究極にまで音を削ぎ落とした楽曲を聴くことができました。
そこでは音だけでなく「余白」までもが音、音楽の一部なのです。響、静寂、それまでもが音であるという音楽の中に、禅の世界を感じました。それは、「伝えたいメッセージ」を究極までに削ぎ落としたらどんな音にしますか、と問われているようでもありました。
音学の起源はどこにあるのでしょう。
それは自然界に存在する音から始まったかもしれません。
水、木、土、風、火、それらは耳をすますと音を発しています。雲であり、空であり、自然はいつも興味深い不思議を作り出しています。その不思議は想像力の源でもあるのでしょう。
箕面の明治の森国定公園の大滝の水しぶき、滝の岩、樹々の木漏れ日のモチーフ、自然を意識してデザインされた素晴らしいホールの中で、智内さんは我々観客を、「自然を鑑賞するように」自然に身を任せて音楽を鑑賞するようにと導いてくださいました。
耳を傾けると、不思議な「なぜ」に包まれました。なぜ水しぶきを音で表したいのか、とか、宇宙の無限性からどうやって音を感じたのか、とかタイトルから想像した作曲家の音への「動機」を考えていました。
何かを、音で表す、表現する、というのは人間だけの持つ特別な創造力なのだとあらためて感じました。
音はもちろん我々の感情のひだを表してくれます。後半に演奏された楽曲 「シャコンヌ」の中では低い苦悩のうめき声から始まったようでもありました。それでも中間部では光をあびて苦悩の声が明らかに浄化された瞬間を感じました。
音楽をはじめ、舞台芸術はやはりその時その時のオーガニックな生き物のようなのです。 演者と観客が作り出す瞬間に同じものはないのかもしれません。
糸を紡ぐように文化が未来に繋がる「文化芸能劇場」を満たした左手のピアノ音楽が、今年12月に開催される「左手のピアノ国際コンクール」の存在により、ますます身近なジャンルとなります様に。なにより、舞台芸術が面したこの困難を一刻も早く乗り越えて、演者と観客が一体となるようなたくさんの感動がこの素晴らしいホールで共有されることを願っています。
これを書きながらも、「スポーツのお祭り」の騒ぎの終わった後の現実に、日本はいったいどう目を向けるのだろうか、と考えずにはいられません。 良くも悪くも、喉元過ぎれば熱さを忘れるのも人間の習性であり、同時に前進するために必要な強さなのでしょうか。
そんな中、今月8月1日 サステナブルな事業の一環として、箕面市に芸術文化活動を支える施設「文化芸能劇場」がオープし、左手のピアニスト、智内威雄(Takeo TCHINAI)氏のリサイタルがオープニングイベントとして催されました。
ホールのある箕面市船場地域は、繊維の街として栄えたところです。「紡ぐ、繋げる」という劇場のモチーフは、芸術、舞台芸術は決して一本の糸だけでなく、まるで幾つもの糸が複雑に交差し絡み合うようにして存在するという、芸術の本質を示すかのようです。
片手だけで演奏されるピアノの楽曲は、まだ馴染みのないジャンルかもしれません。音が少ないということはどういうことなのかと考えさせられます。
もちろん、複雑に左腕がまるでダンスを舞うように奏でられる楽曲の中には音が少ないことを意識しないどころか、大変複雑なものも存在するのですが、当日のコンサートでは、究極にまで音を削ぎ落とした楽曲を聴くことができました。
そこでは音だけでなく「余白」までもが音、音楽の一部なのです。響、静寂、それまでもが音であるという音楽の中に、禅の世界を感じました。それは、「伝えたいメッセージ」を究極までに削ぎ落としたらどんな音にしますか、と問われているようでもありました。
音学の起源はどこにあるのでしょう。
それは自然界に存在する音から始まったかもしれません。
水、木、土、風、火、それらは耳をすますと音を発しています。雲であり、空であり、自然はいつも興味深い不思議を作り出しています。その不思議は想像力の源でもあるのでしょう。
箕面の明治の森国定公園の大滝の水しぶき、滝の岩、樹々の木漏れ日のモチーフ、自然を意識してデザインされた素晴らしいホールの中で、智内さんは我々観客を、「自然を鑑賞するように」自然に身を任せて音楽を鑑賞するようにと導いてくださいました。
耳を傾けると、不思議な「なぜ」に包まれました。なぜ水しぶきを音で表したいのか、とか、宇宙の無限性からどうやって音を感じたのか、とかタイトルから想像した作曲家の音への「動機」を考えていました。
何かを、音で表す、表現する、というのは人間だけの持つ特別な創造力なのだとあらためて感じました。
音はもちろん我々の感情のひだを表してくれます。後半に演奏された楽曲 「シャコンヌ」の中では低い苦悩のうめき声から始まったようでもありました。それでも中間部では光をあびて苦悩の声が明らかに浄化された瞬間を感じました。
音楽をはじめ、舞台芸術はやはりその時その時のオーガニックな生き物のようなのです。 演者と観客が作り出す瞬間に同じものはないのかもしれません。
糸を紡ぐように文化が未来に繋がる「文化芸能劇場」を満たした左手のピアノ音楽が、今年12月に開催される「左手のピアノ国際コンクール」の存在により、ますます身近なジャンルとなります様に。なにより、舞台芸術が面したこの困難を一刻も早く乗り越えて、演者と観客が一体となるようなたくさんの感動がこの素晴らしいホールで共有されることを願っています。
バックスター ルミ
バイリンガルライフコーチ
バイリンガルライフコーチ
心理カウンセラーのバックグラウンドをいかし、英会話講師として「コミニケーションレッスン」を展開中。 半生を英国、ヨーロッパのライフスタイルに関わってきたことから、それらの経験をもとに独自のレッスンを提供している。「五感+plus」を使ってコミュニケーション能力を磨くレッスンは、本格的英国サロンで行われている。
RumiBaxter
BROG:http://ameblo.jp/rumi-b/
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