同志少女よ、敵を撃て(逢坂冬馬)
実在したソ連の女性狙撃兵たちの物語 同志少女よ、敵を撃て
逢坂冬馬(著) 私がパーソナリティを担当している大阪府箕面市のコミュニティFMみのおエフエムの「デイライトタッキー」。その中の「図書館だより」では、箕面市立図書館の司書さんが選んだ本をご紹介しています。
今回ご紹介するのは、逢坂冬馬さんの『同志少女よ、敵を撃て』。 この小説は、第二次世界大戦参戦国の中で、というより人類史上、最も多くの死者を出した独ソ戦で、実在したソ連の女性狙撃兵たちの物語です。 1942年、セラフィマはモスクワ近郊の小さな村で母と二人で暮らしていた。父は早く亡くなっていて、写真でしか見たことがない。母は猟師をして生計を立てていた。サラフィマも銃を撃つことができるが母ほどの腕前ではない。そもそもセラフィマは猟師を継ぐつもりはない。将来の夢は外交官。そのためにドイツ語も一生懸命勉強してきた。ドイツとの戦況は厳しいらしいが、セラフィマの村はまだ無事だ。成績が優秀なセラフィマは村始まって以来、モスクワの大学に進学する女性になるはずだった。
だがその夢はドイツ軍によって壊された。母とセラフィマが狩に出かけている間に、ドイツ兵が村を襲撃。男性は即殺され、女性は陵辱を受けた後で殺されている。狩の帰り道、二人が丘の上から村の異変に気がついた時には既に遅かった。一矢報いようと銃を構えた母は射殺されてしまう。セラフィマも捉えられ、他の娘たちと同じ運命を辿るかと思われたとき、ソ連軍が到着、セラフィマだけが生き残ってしまった。全てを失ったセラフィマにソ連軍の女性将校が尋ねる「お前は戦うのか、死ぬのか」と。それに対し「殺す!」と答えたセラフィマは女性狙撃手育成のための学校へとつれていかれ、そこで狙撃の訓練を受けることになった… (逢坂冬馬さん『同志少女よ、敵を撃て』の出だしを私なりに紹介しました) 先ほども書きましたが、ソ連の女性狙撃隊は実在のもので、前線で戦ったそうです。
当時アメリカやドイツにも女性の兵士はいましたが、最前線で戦ってはいなかったようで、この女性狙撃隊は非常に特異な存在だったと言えるでしょう。 狙撃手育成機関に集められた少女たちには共通点がありました。 皆セラフィマのように、この戦争で両親や親戚、友達を失った天涯孤独な身の上だったのです。確かに、最前線に投入されることになるとわかっているのですから、普通の家庭の娘さんを入れるわけにはいかなかったのかもしれません。親兄弟の反対を受けるという意味だけではなく、これ以上失うものは何もなく、死んでいった人たちのためにという強い動機がないと絶対につとまらない任務だったという意味もあります。それに天涯孤独であれば、戦場で亡くなっても悲しむ人がいないわけです。合理的と言えば合理的だけれど、冷たい判断です。 女性狙撃手を育成する学校は非常に厳しく、しかも実践的なトレーニングを生徒たちに課してきます。途中で脱落させられる生徒も。しかし厳しいトレーニングの様子は、ある種学園ドラマのようで、この小説においてはほっこりできる部分でした。 特に最初に身につけさせられる、距離や角度を正確に把握できるようになるトレーニングが興味深かったです。人の目はみんな見え方が違うし、スコープの性能も銃器によって異なる上、天候や気温によっても距離感覚が変わるので、全てを分析して正確な距離を読み取れなければ戦場では「死」に直結するのだということが、よくわかりました。 しかし、狙撃手の訓練を面白いと思っていられるのはその辺りまで。上達してくると、動くもの、つまり動物で腕前を試すことになるのです。的を撃つのとは訳が違い、引き金を引けない人も現れてきます。そりゃそうでしょう、ついこの間までは一人の普通の少女だったのです。生き物を撃つ、もっと言えば、自分に危害を加えているわけでもない動物を殺すことは心理的に難しいと思います。しかし、彼女たちは将来人間を撃つことになるのです。それが戦争なのです。 訓練を終えた彼女たちが向かう戦場の様子は、非常に過酷でした。 当たり前のことですが、ドイツ兵だって必死。相手を倒さなければ自分の命がない、そして相手を倒すためにはさまざまな手段を使うことになり、読んでいて心拍数が高くなる場面が多数ありました。 私がこの小説で一番辛く感じたのは、軍用犬の対戦車利用。 以前、同じ独ソ戦を舞台にしたデイビッド・ベニオフさんの『卵をめぐる祖父の戦争』でも同じような場面があり、その時は号泣しながら読んだのですが、今回は「辛い、辛い。もういやだー」と心の中で叫びながら読みました。この小説の中で描かれた兵士たちのあらゆる死に様より悲痛なものがありました。人間が勝手に起こした戦争に、無垢な動物たちまでもが犠牲になる、耐えられないものがあります。 耐えられない、と言えば訓練を重ねてきた狙撃手たちも、初めはなかなか引き金を引くことができません。敵とはいえ相手も人間だからです。 しかし恐ろしいもので、狙撃慣れしてしまうと的を射ること、倒した人数が増えることに快楽を覚えてしまうこともあるようです。平時に人を撃てば殺人だけれど、戦時には褒章ものですから、自分を正当化できてしまうのです。それもまた戦争の恐ろしいところかもしれません。 とはいえこれは小説ですから、セラフィマたちの戦闘テクニックや頭脳戦を面白く読むことができます。ソ連兵ドイツ兵ともに知力体力を尽くして戦うさまの描写力が凄くて、まるで映画のように目の前に戦闘シーンが現れてます。また、点として配置されていた登場人物たちが繋がっていく様子も非常に面白く、アガサクリスティ賞と本屋大賞を受賞したのが納得できる作品でした。 これは戦争を描いた作品ですが、作者は戦争を避けるヒントをくれている場面があるように感じました。それは究極の二択に関する話。狙撃手育成を担当する女性教官は天涯孤独な少女をスカウト(?)するとき「お前は死にたいか、それとも戦いたいか」と問います。もちろん「戦う」と言った少女が狙撃手育成に選ばれるわけです。「死ぬか」「戦うか」この二択しかないとき自分が生きたければ戦うしかない、と考えるのが普通だけれど、本当は「どちらも嫌だ」という選択ができるのだと、ある登場人物を通して教えてくれるのです。このことは戦争に限らず、対人関係全てに応用できると思いました。 非常に読み応えのある小説でした。 池田 千波留
パーソナリティ・ライター コミュニティエフエムのパーソナリティ、司会、ナレーション、アナウンス、 そしてライターとさまざまな形でいろいろな情報を発信しています。 BROG:「茶々吉24時ー着物と歌劇とわんにゃんとー」 ヒトが好き、まちが好き、生きていることが好き。だからすべてが詰まった本の世界はもっと好き。私の視点で好き勝手なことを書いていますが、ベースにあるのは本を愛する気持ち。 この気持ちが同じく本好きの心に触れて共振しますように。⇒販売HP/Amazon
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