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やちまた(足立巻一)

春庭や著者をめぐる人びとの人生の「やちまた」

やちまた
足立巻一(著)
やちまた(八衢)とは、道がいくつにも分かれていること。本書に登場する江戸時代の国語学者、本居春庭(もとおりはるにわ)の著作『詞の八衢(ことばのやちまた)』は、日本語の動詞の活用を体系的に説明した国語学史上画期的な書です。

本書は『詞の八衢』の成立過程と春庭の生涯をつまびらかに記した評伝小説です。くわえて40年にわたって春庭の生涯を追い続けた足立巻一氏自身の半生も描いています。さらに、春庭や著者足立氏をめぐる人びとの人生までもが描かれています。「やちまた」は、人生の比喩でもあります。

さて、本居春庭は、『古事記伝』等を著した著名な国学者本居宣長の長男です。幼少の頃から父の薫陶を受け、膨大で幅広い知識、見識を養ってきました。宣長の後継者として期待されていましたが、29歳の頃から目を悪くし、32歳のときには完全に失明してしまいます。

春庭本人の強い願いもあって本居家は弟子が養子になって継ぐのですが、春庭は弟妹や親戚、門人らの支えによって学問を続けました。そうして春庭が生涯をかけてまとめた動詞の活用の法則についての研究は、同時代人からも高く評価されることになります。

その後、春庭の業績は諸学者に受け継がれ、修正を施されながら発展し、いま私たちが学ぶ日本語文法の基礎の部分を成しています。ところが、そういった学問的貢献のわりには、春庭自身についての研究はほとんどなされていませんでした。

本書の語り手である足立氏は、学生の時に受けた「文法学概論」の講義で春庭の功績を知り、いまだ謎の多い春庭の生涯に惹かれます。以来、この「盲目の語学者」は、著者の心に中に「巣くって」しまったのです。

足立氏は、二度の出征で負傷し、あとあとまでその後遺症に苦しみながらも、40年にわたって春庭の生涯を追っていきます。その探索の過程を、時系列に沿って、細部に至るまで本書で再現します。この作品の魅力は、まさにその「再現」という表現方法にあります。

もし本書が専門的な学術論文の体裁で発表されていたなら、おそらくごく一部の専門家以外には注目されなかったでしょう。

しかし、足立氏の『やちまた』は、春庭伝でありながら、春庭の人生に憑かれた著者の人生、春庭をめぐる諸学者や門人たちの人生、春庭探求の過程で出会った学友、恩師、学者、郷土史家たちの人生をも追い、書き記したものでもあるのです。その複雑で多層的な構成が、本書をたいへん面白く、味わいのあるものにしています。

ところで、春庭は中途失明したのちは、妹や妻らの代筆で研究や著述を進めますが、日記や手紙は残していません。そのため、どのような生活を送ったのか、どのような心情であったのか、『詞の八衢』に至る発想はいつ、どのような形で得たのかといったことは、父宣長や門人たちの残した日記や書簡、同時代人の著述の言語学的考証から推測していかなくてはいけません。

そのため、春庭研究は、いきおい、同時代人たちの足跡を微に入り細に入り辿るものになります。著者は、本居家に関わりのある人物たちをしらみつぶしに探索します。

史料調査や現地調査を重ねても、居宅や墓地や家系が判然としない人物もいます。そうかと思えば、訪ねた先で、これぞ決定打!というような未発表史料に行き当たることもあります。戦後に、ごっそりと未公刊資料が現れ、一気に研究が進んだりもします。このようにして200年越しの謎が次第に解かれていきます。

小説として、評伝として、読みやすいかといえば、微妙です。足立氏の半生に沿った地の文には、クスっと笑える表現や、さらっと口の悪い表現なども散りばめられていて、決して堅苦しくはありません。

でも、なにしろ探索の対象が江戸時代の学者なので、当時の文章や和歌がたくさん挿入されます。しかも、登場人物がとにかく多い! すらすらと読み飛ばすことは困難です。

ただ、当時の文章を提示したときには、直後にわかりやすく現代語で解説されているので、その方面に素養がなくても、理解は可能です。

それでも、地の文にも、いまどき使わないような言葉がちょこちょこと現れます。でも、それがまた楽しいのです。電子辞書をかたわらに置いて、知らない言葉を調べながら、人が半生をかけて探求したことを追う楽しさを存分に味わいました。

本書の主な舞台は、伊勢、松坂(三重県松阪市)、京都です。電子辞書とともに、タブレットをかたわらに置いて、春庭と著者の半生をインターネットの地図でたどりながら読みました。町並みの変遷や史跡の現状などを確認しながら読んでいくと、より立体的に楽しめます。

さらさらと読み流せる本ではありませんが、手ごたえのある、読み応えのある作品に挑戦したいときにおすすめです! 
やちまた
足立巻一(著)
中央公論新社
本居宣長の長男に生まれ、三十代半ばで失明した春庭。文法学者として日本語の動詞活用を研究、『詞の八衢』を著し国語学史上に不滅の業績を残した人物である。学生時代に春庭を知り、その生涯に魅せられた著者が、半生をかけて書き上げた評伝文学の大著。昭和四十九年度芸術選奨文部大臣賞受賞作。 出典:amazon
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橋本 信子
同志社大学嘱託講師/関西大学非常勤講師

同志社大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程単位取得退学。同志社大学嘱託講師、関西大学非常勤講師。政治学、ロシア東欧地域研究等を担当。2011~18年度は、大阪商業大学、流通科学大学において、初年次教育、アカデミック・ライティング、読書指導のプログラム開発に従事。共著に『アカデミック・ライティングの基礎』(晃洋書房 2017年)。
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⇒関西ウーマンインタビュー(アカデミック編)記事はこちら

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