丁寧に生きるという選択
ライフスタイル 2019-11-08
心理カウンセラーのバックグラウンドをいかし、英会話講師として「コミニケーションレッスン」を展開中。 半生を英国、ヨーロッパのライフスタイルに関わってきたことから、それらの経験をもとに独自のレッスンを提供している。「五感+plus」を使ってコミュニケーション能力を磨くレッスンは、本格的英国サロンで行われている。
RumiBaxter
BROG:http://ameblo.jp/rumi-b/
私たちが「生きる」中で、たくさんの選択をしています。 その選択は、意識したものから無意識に選んでいるもの、とるに足らない小さな選択から人生の岐路に立たされた大きな選択まで、その種類も様々。「丁寧に生きる選択」というライフスタイルは、未来へのキーワードでもあります。
瞬間と永遠 |
秋。私の一番好きな季節です。
空には薄い青色が広がり、朝夕にはキッリっと張り詰めたような乾燥した空気が漂います。
一年の季節の中で最もイギリスを一番思い出す季節でもあり、ノスタルジーに満たされた気分になります。
そんな中、先日は東京に出かける用事があり日帰りの一人旅へと出かけてまいりました。
数十年前に住んでいた大都市、そして、普段は関わることのない大都市でもありますが、いろいろなところで眠っていた記憶の破片、その破片のジグソーパズルがつながる、という面白い体験をしました。
水面下で眠っていた記憶は、一瞬の風景が、または、一瞬の他人の横顔がトリガーとなり、それらが見覚えのあるなにかと絡み合い、どんどん意識の表面に上がってくるようでもありました。 まるで瞬間の連続が永遠へと繋がるかのように。
私たちは今や経験している瞬間を忘れてはならないと必死になっているようです。
その瞬間の幸せや楽しみを忘れないで、と記憶に留めようと努力をします。写真を撮り、それを投稿、は日常的な現実で、その幸せ、楽しみをシェアすることも当たり前のライフスタイルです。
そんな中、ある方が記憶について語っているのを目にした時、はっとしました。
画家であるその方は、取材用に写真を撮ります。実際にキャンバスに向かい、その風景画に取りかかるときは、記憶だけを頼りにし、あえて、先に撮った写真を見ることはされないそうなのです。
「記憶としてよみがえらない風景は、消化されていない」のだとか。記憶として残っていることのみが消化されていると。
この言葉を聞いてから、消化されている記憶、記憶として消化する、ということに意識を向けるようになりました。
記憶にも残らないということは心も動くことがなかった。ということなのかもしれません。
それは「経験してる今」と心が通い、十分目を向けることができたなら記憶に残るということなのでしょうか。
やはり、それは「今を大切に。」ということだと感じます。
東京に住んでいた、その頃ずいぶんと若かった私は、「当時の今」を精一杯楽しんでいたのでしょうか。
記憶という概念にこだわる日本画家の千住博さんは、これから千年生き続ける絵画に取り組まれています。
人生100年時代の今でさえ、100年x10回分の人生です。その未来に存在している「今」はどんな今なのでしょう。
いずれにせよ、なにかを生み出す方々が千年後にまで生き続け、残っていることに焦点を当て創作されているというのは究極のサスティナブルの発想であり、感動を覚えます。
作品には千年前から日本に存在した日本古来の植物、コウゾ、ミツマタ、ガンピ、を使って作られる和紙を使うことで今から千年後も存在していることをイメージされているそうです。
過去、現在、未来が千年のスパンで動き、生き続けるというスケールにはただただ感動します。
顔料も、ゆうに千年以上かけて作られたであろう鉱山石の粉や貝の粉を使うことで、岩のもつ記憶が宿る作品を創作するというのですから、それらの作品の放つエネルギーは当然別格な何かを感じます。
一個人のもつ記憶などそれに比べればせいぜい数十年でしょう。でも、その人を構成するのは何より「記憶」である、というのを聞いた時には、なるほど、と思いました。
私たちにとって、なにをどう覚え、どう記憶しているかというのが究極のアイデンティティーということでしょうか。
そして、その個人の死後も生き続けるものがあるとすれば、それはその人に対する「記憶」なのです。
これほどサスティナブル、持続可能な社会への目標が唱えれられているなか、正直、言葉ばかりが先行している気がしていましたが、自分の「記憶」に対面したことにより、サスティナブル、持続可能、について考えさせられる経験となりました。
空には薄い青色が広がり、朝夕にはキッリっと張り詰めたような乾燥した空気が漂います。
一年の季節の中で最もイギリスを一番思い出す季節でもあり、ノスタルジーに満たされた気分になります。
そんな中、先日は東京に出かける用事があり日帰りの一人旅へと出かけてまいりました。
数十年前に住んでいた大都市、そして、普段は関わることのない大都市でもありますが、いろいろなところで眠っていた記憶の破片、その破片のジグソーパズルがつながる、という面白い体験をしました。
水面下で眠っていた記憶は、一瞬の風景が、または、一瞬の他人の横顔がトリガーとなり、それらが見覚えのあるなにかと絡み合い、どんどん意識の表面に上がってくるようでもありました。 まるで瞬間の連続が永遠へと繋がるかのように。
私たちは今や経験している瞬間を忘れてはならないと必死になっているようです。
その瞬間の幸せや楽しみを忘れないで、と記憶に留めようと努力をします。写真を撮り、それを投稿、は日常的な現実で、その幸せ、楽しみをシェアすることも当たり前のライフスタイルです。
そんな中、ある方が記憶について語っているのを目にした時、はっとしました。
画家であるその方は、取材用に写真を撮ります。実際にキャンバスに向かい、その風景画に取りかかるときは、記憶だけを頼りにし、あえて、先に撮った写真を見ることはされないそうなのです。
「記憶としてよみがえらない風景は、消化されていない」のだとか。記憶として残っていることのみが消化されていると。
この言葉を聞いてから、消化されている記憶、記憶として消化する、ということに意識を向けるようになりました。
記憶にも残らないということは心も動くことがなかった。ということなのかもしれません。
それは「経験してる今」と心が通い、十分目を向けることができたなら記憶に残るということなのでしょうか。
やはり、それは「今を大切に。」ということだと感じます。
東京に住んでいた、その頃ずいぶんと若かった私は、「当時の今」を精一杯楽しんでいたのでしょうか。
記憶という概念にこだわる日本画家の千住博さんは、これから千年生き続ける絵画に取り組まれています。
人生100年時代の今でさえ、100年x10回分の人生です。その未来に存在している「今」はどんな今なのでしょう。
いずれにせよ、なにかを生み出す方々が千年後にまで生き続け、残っていることに焦点を当て創作されているというのは究極のサスティナブルの発想であり、感動を覚えます。
作品には千年前から日本に存在した日本古来の植物、コウゾ、ミツマタ、ガンピ、を使って作られる和紙を使うことで今から千年後も存在していることをイメージされているそうです。
過去、現在、未来が千年のスパンで動き、生き続けるというスケールにはただただ感動します。
顔料も、ゆうに千年以上かけて作られたであろう鉱山石の粉や貝の粉を使うことで、岩のもつ記憶が宿る作品を創作するというのですから、それらの作品の放つエネルギーは当然別格な何かを感じます。
一個人のもつ記憶などそれに比べればせいぜい数十年でしょう。でも、その人を構成するのは何より「記憶」である、というのを聞いた時には、なるほど、と思いました。
私たちにとって、なにをどう覚え、どう記憶しているかというのが究極のアイデンティティーということでしょうか。
そして、その個人の死後も生き続けるものがあるとすれば、それはその人に対する「記憶」なのです。
これほどサスティナブル、持続可能な社会への目標が唱えれられているなか、正直、言葉ばかりが先行している気がしていましたが、自分の「記憶」に対面したことにより、サスティナブル、持続可能、について考えさせられる経験となりました。
バックスター ルミ
バイリンガルライフコーチ
バイリンガルライフコーチ
心理カウンセラーのバックグラウンドをいかし、英会話講師として「コミニケーションレッスン」を展開中。 半生を英国、ヨーロッパのライフスタイルに関わってきたことから、それらの経験をもとに独自のレッスンを提供している。「五感+plus」を使ってコミュニケーション能力を磨くレッスンは、本格的英国サロンで行われている。
RumiBaxter
BROG:http://ameblo.jp/rumi-b/
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