収容所から来た遺書(辺見じゅん)
このような人々がいたことを忘れてはいけない 収容所(ラーゲリ)から来た遺書
辺見じゅん(著) この冬、二宮和也さん主演の映画「ラーゲリより愛を込めて」が全国で一斉公開されます。その原作である本書は、富山県出身の作家で歌人の辺見じゅん氏が1989年に発表した作品で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞(1990年度)を受賞しています。
ラーゲリとは、旧ソ連邦内に数多くつくられた収容所施設のことです。ソ連国民で反体制的とみなされた人々や、日本兵やドイツ兵などの戦争捕虜(俘虜)が収容されました。辺鄙で過酷な気候の場所につくられることが多く、収容された人々は、衣服や食料・医療体制もまったく不十分ななかで、森林や鉱山開発などの重労働に従事させられました。 俘虜たちは、常に空腹にさいなまれました。食事は、一日に黒パン350グラム、朝夕にカーシャと呼ばれる粥が飯盒に半杯ずつか、野菜の切れはしが2、3片浮いた塩味のスープ、砂糖が小さじ1杯支給されるだけです。作業現場への道すがら、畑の馬鈴薯を盗んで食べる人があとを断たず、なかには、間違えて凍った馬糞を拾ってきた人もいました。ネズミや蛇や蛙やカタツムリはごちそうの部類で、運悪く毒草や毒キノコを食べて気がふれる人も出たそうです。 恒常的に空腹で体力がないなかで課される作業ノルマは厳しく、達成できなければ食料が減らされました。そうするとますます体力が衰え、作業量も落ちます。そうして体力のない者から次々に栄養失調で亡くなっていくのでした。 本書の主人公である山本幡男氏は、学生の頃は社会主義に傾倒し、ロシアびいきと目されていました。ところが、卓越したロシア語力を買われて、満州鉄道の調査部や特務機関に勤務します。その経歴から、スパイであったと目を付けられ、収容所ではとりわけ厳しい扱いを受けました。 にもかかわらず、山本氏は決して帰国を諦めることなく、日本の文化や言葉を大切に維持していこうと周囲の人々と勉強会や句会を開き、文芸誌を発行します。そうして、生きていればいつか故郷に帰れると仲間を励まし続けました。 ラーゲリでは、筆記用具を自由に入手することはできません。帰国の際にも、文字を記したものは厳重にチェックされ、没収されます。見つかると処罰される恐れがあるので、書いたものもしばらく閲覧したあとは処分していました。 にもかかわらず、本書には収容所でつくられたたくさんの俳句や詩が紹介されています。そして、病に倒れた山本氏が家族にあてた遺書も、全文が掲載されています。帰国を切望し、日本にいる妻子や母を思って絞り出した言葉は、読む者の心に深く響きます。いったいどのようにして、これらの言葉は伝えられたのでしょうか。ぜひ本書を読んで、その答えを知っていただきたいと思います。 シベリアに抑留されていた人々は段階的に帰国していきましたが、最後まで残された人たちの帰還がかなったのは、昭和31(1956)年、戦後11年も経ってからのことでした。この年の『経済白書』の序文には、「もはや戦後ではない」との言葉も記されるほど日本本土の復興は進んでいましたが、それだけの年月を囚われの身で過ごさざるを得なかった人たちがいたこと、しかもそのような辛苦をなめた人々が帰国後、ソ連のスパイではないかというような疑いをかけられ、二重三重の苦労をされたことを忘れてはいけないと思います。 シベリア抑留の記録や記憶は、ユネスコの世界記憶遺産として登録されています。引揚港となった舞鶴の地には引揚記念館があり、多くの資料が保存公開されています。シベリアでの過酷な生活を垣間見ることのできる実物大模型などもあります。 なお、本書は、『ラーゲリ 収容所から来た遺書』(作画・河井克夫氏、文藝春秋刊)として漫画化もされています。 収容所(ラーゲリ)から来た遺書
辺見じゅん(著) 文春文庫 1992年 敗戦から12年目に遺族が手にした6通の遺書。ソ連軍に捕われ、極寒と飢餓と重労働のシベリア抑留中に死んだ男のその遺書は、彼を欽慕する仲間達の驚くべき方法により厳しいソ連監視網をかい潜ったものだった。悪名高き強制収容所に屈しなかった男達のしたたかな知性と人間性を発掘して大宅賞受賞の感動の傑作。 出典:amazon 橋本 信子
大阪経済大学経営学部准教授 同志社大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程単位取得退学。専門は政治学、ロシア東欧地域研究。2003年から初年次教育、アカデミック・ライティング、読書指導のプログラム開発にも従事。共著に『アカデミック・ライティングの基礎』(晃洋書房 2017年)。 BLOG:http://chekosan.exblog.jp/ Facebook:nobuko.hashimoto.566 ⇒関西ウーマンインタビュー(アカデミック編)記事はこちら |