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池田 千波留
パーソナリティ、ライター 香のん

タカラジェンヌ歳時記 趣味・カルチャー 2014-11-21
宝塚のフレッド・アステア 大浦みずきを偲ぶ

今年100周年を迎えた宝塚歌劇団では、
さまざまな式典やイベントが華やかに執り行われてきました。
また、テレビ・ラジオ・雑誌など様々なメディアに現役生やOGが出演し
注目を浴びています。

その華やかな100周年を前にした昨年、2013年1月25日に、
宝塚大劇場で行われたのが「宝塚歌劇 物故者音楽慰霊祭 ー忘れな君、我らが想いー」でした。
これは宝塚歌劇の生徒や関係者などの物故者をしのぶものです。
当日は、東京公演中だった星組、博多座公演中の宙組を除く
現役生および宝塚音楽学校生合計315人がそろい、
宝塚歌劇のシンボルの1つ大階段にぎっしりと整列し、
「宝塚歌劇団団歌」「おお宝塚」「すみれの花咲く頃」などを合唱しました。
そして客席に招かれた物故者の親類や関係者らとともに黙祷を捧げました。
また創始者である小林一三から、2012年8月に亡くなった春日野八千代まで
1430人を記した芳名録が祭壇に献上されました。
皆、さまざまな形で宝塚歌劇100周年を支えた人たちです。

芳名録には元花組トップスター、
宝塚のフレッド・アステアと称された大浦みずきの名も記されていました。

1974年「虞美人」で初舞台を踏んだ大浦みずきは
雪組に配属されたあと星組に組替え、次いで花組に組替えとなり
1988年「キス・ミー・ケイト」でトップスターに就任しました。
どんな瞬間に撮影してもさまになる、
美しくしなやかなダンスを最大の武器として1991年までトップを勤めました。
退団後はダンスだけでなく、タンゴシンガーとしても活躍しましたが
2009年11月14日、肺がんのため53歳の若さで亡くなりました。

実は私にとって、大浦みずきは青春そのもの。
花組2番手時代にその魅力にはまってしまい、
ファンクラブにも入ったものです。
もし大浦みずきが宝塚歌劇団に居なければ
私はこんなにも宝塚を愛することはなかったかもしれません。

大浦みずきが初舞台を踏んですぐに配属されたのは雪組。
トップスター汀夏子、2番手 麻実れいが牽引する
「芝居の雪組」で下級生時代を過ごせたことは
大浦みずきにとって幸せなことだったと思います。
ついで組替えで入った星組のトップスターは瀬戸内美八。
瀬戸内は「ひまわりのよう」と例えられる明るさがある反面、
憂愁の貴公子もよく似合い、相反する二つの魅力がありました。
雪組時代とは違うトップスターの背中から学ぶことも多かったでしょう。
そして次期トップスターとしての花組組替えで、
コメディーセンスのある高汐巴とともに花組黄金時代を築いていくのでした。
ちなみに高汐巴も大浦みずきとほぼ同じ時期に雪組で育ったことに
深い縁を感じます。

さて、花組2番手時代の大浦みずきにはまってしまった私は
一人で楽屋入りや出を待つようになり、自然とファンクラブに入会することになりました。
初めて大浦さんとじかに言葉を交わした日のことは忘れられません。

当時の大浦さんはマイカー通勤をしており、
愛車の黄色いジェミニを、駐車場(手塚治虫記念館の斜め前、現在はタワーマンション)に止め
そこから歩いてお稽古場、あるいは楽屋に向かうのでした。
ファンは駐車場で待ち、大浦さんと一緒に歩く数分間を楽しみにしていたのですが
当時のファンクラブの幹部さん(今でいうスタッフ、アシスタント)の配慮で
ファンクラブに入って間もない人や、遠方から来た人が優先で
大浦さんの隣を歩けるようになっていました。
その「お隣」に私が選ばれた日、「今日初めての池田千波留さんです」という
幹部さんの言葉を聞いた大浦さんは、私を見てこう言ったのです。
「池田さん…池田のかた?」
阪急宝塚線沿いにある池田市とかけた駄洒落に
初めて隣を歩く緊張でカチコチになっていた私は、
「なーちゃん(大浦さんの愛称)が私にダジャレを言った?!」とびっくり。
思わず目を見開いて、見返してしまいました。
「あ、そう」で済むところを、何か言ってあげなければと思ってくださったのでしょう。
ご自分でも、あまりうまくないシャレだと思われたのか
照れくさそうに笑う大浦さんに完全にノックアウトされた瞬間でした。

昨年11月15日から今年11月8日まで開催された
「大浦みずき追想展」に向かう新幹線の中でも
思い出されたのは この時のこと。
本当にファンに優しい人でした。

「大浦みずき追想展」は大浦みずきが幼少期を過ごした
東京都中野区にある公団住宅で行われていました。
大浦みずきの父親である芥川賞作家 阪田寛夫氏の遺品を母校に寄贈したため
展示スペースが生まれたことと、
闘病中の大浦みずきが、今後ダンスや歌の仕事ができないであろうから
あの家で原稿を書く生活をしようかと、
将来を思い描いていたことがきっかけで行われた追想展。
本当に普通のおうちにお邪魔する感覚でした。

玄関で靴を脱いでハナミズキの柄ののれんをくぐると、
阪田寛夫氏のために間取りを改造して作られたという
天井までの本棚が目に入ります。

子どもの頃の写真や作文があるかと思えば
星組「アンタレスの星」「薔薇パニック」で初めて宝塚大劇場ロビーに掲示されたパネルあり。
また一方で、ミュージカル「蜘蛛女のキス」オーロラ役の衣装展示がありました。
実際には「蜘蛛女のキス」でオーロラ役にキャスティングされることがなかった大浦みずきが
芸能生活三十周年のショーで「誰もやらせてくれないから自前で作った」と
笑いをとったエピソードが残された衣装です。
このように、さまざまな時代の大浦みずきを偲べる工夫がされていました。

中でも興味深かったのは宝塚音楽学校予科時代の成績表。
100点満点で記載されている成績表を見ると、
体操・バレエはもともと得意だったからか80点から100点近い点数を取っているのに対し
演劇や声楽の1学期の成績は70点と、あまりふるわず、
日舞や三味線に至っては60点台です。
しかし、日舞は1学期62点、2学期が63点、3学期が68点、
1学期に89点だった音楽通論は3学期には100点満点を取るなど
努力の様子が見て取れました。
普通の学校とは違って、成績表には学期ごとの学年順位が明記されていて
大浦みずきは1学期2学期が5位、3学期は1位という好成績。
めったに目にすることのない宝塚音楽学校の成績表から
厳しさを感じました。

2階に上ると、サンデッキのような部屋に大浦みずきの楽屋が再現されていました。
化粧前に飾られていたのは奈良秋篠寺の伎芸天のポートレート。
絵や音楽、俳句や踊りなど、技芸に関することなら何でも得意な女神 伎芸天。
お参りすれば、芸事が上達すると言われている伎芸天をいつも拝しながら
舞台に備えていたのですね。

サンデッキの反対側の部屋の窓に面して、シンプルな長机が置かれています。
元々は阪田寛夫氏の書斎だったという長机に広げられている
大浦みずき直筆の原稿を見て
胸に込み上げてくるものがありました。
退院したら、ここで原稿を書くつもりだったのです。

もう二度と、なーちゃんが踊れなくても、歌えなくても良かった、
周囲に緑が多く、工夫して改装され住みやすそうなお宅の
この2階の書斎に なーちゃんを座らせてあげたかった。
そうしてなーちゃんが書き上げたものを読むことで、
いろいろなことを共感したかったよ。

大浦みずきが育ったお家を訪問できたことは、
ファンとしては望外の喜びでしたが
もし大浦みずきが存命であれば決して叶わなかったことだと思うと
複雑な心境でした。

原稿を書いている今日(11月14日)は大浦みずきの祥月命日です。
毎年ずっと悲しい日だと思っていたのですが、
最近ふとした時に大浦みずきの存在を感じることが増えてきました。
人が亡くなっても、その人の存在が完全に消滅するわけではないのですね。

ここまで個人的な話につきあってくださってありがとうございます。

おそらく、宝塚歌劇100周年の今年、
物故者にゆかりの方はみなさま、宝塚歌劇関連の報道に触れるたび
さまざまな思い出を心の中に蘇らせておられたのではないでしょうか。

最初に述べた宝塚歌劇団の音楽慰霊祭は
宝塚歌劇創立50周年だった1964年と、
旧宝塚大劇場最後の年だった1992年に行われていて
昨年が3度目の開催だったそうです。

これから150年、200年と歴史を重ねる中で
ぜひまた開催していただきたいです。
宝塚の長い歴史はいま生きている人だけのものではないのですから。


【宝塚歌劇の殿堂 第二回企画展「大浦みずき展」】
宝塚大劇場内にある宝塚歌劇の殿堂では
第二回企画展 伝説のダンサー「大浦みずき展」開催中です。
縁の品物、映像、写真による「大浦みずき展」は
2014年12月15日まで。
ご観劇の際にお立ち寄りになってはいかがでしょう。

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