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線は、僕を描く(砥上裕將)

「目が届くところにしか、手の技は届かない」

線は、僕を描く
砥上裕將(著)
紙の白と、墨の黒の濃淡だけで生み出される世界。『線は、僕を描く』は、これまでなじみのなかった水墨画の世界へと私を誘い、水墨画を見てみたい、描いてみたいかもと思わせてくれた青春小説です。

この作品、私は漫画アプリで出会いました。水墨画を取り上げた漫画とは珍しい、しかも映画化もされたのかと思って開いたところ、作品中に描かれた水墨画に魅せられ、最後まで読み切ってしまいました。

ストーリーもさることながら、画中の水墨画があまりに素敵だったので、誰が描いてるのだろうと思ったら、原作者である水墨画家とのこと。すぐさま原作本を入手して、これまた一気に読んでしまいました。

主人公の青山霜介君は、高校生のときに両親を事故で亡くします。孤独と喪失感から食事をする気力もなくなり、痩せ細った身体に覇気のない顔をしています。世界の何にも対応できなくなってしまった彼は、心の中の真っ白な直方体の部屋に閉じこもる日々を過ごしていました。

周囲の支援によって、名前を書くだけで進学できる系列大学に進み、無気力なりにも外の世界と関われるようになってきた青山君は、社交的な友人の古前君が請け負った水墨画の展覧会のアルバイトに駆り出されます。事前の説明とは大違いの肉体労働に、集められたアルバイトが次々逃げ帰るなか、青山君だけは残って責任を果たします。

その会場で、青山君は、水墨画の大家、篠田湖山先生や、その弟子の西濱湖峰さんと出会います。青山君はこの「不思議な人」たちと話すうちに少しだけ気分がよくなり、久しぶりに空腹を感じてお弁当を美味しく食べます。さらに湖山先生と水墨画を見ながら、絵の感想を述べたり、描いた人に興味をもったりします。

そんな青山君の観察眼と、お弁当を食べる時の箸の使い方が美しいのを見て、湖山先生は青山君を水墨画の世界に誘います。そして、孫で弟子でもある千瑛に対し、青山君を弟子にすること、彼は彼女のライバルに育つだろうことを宣言します。実は湖山が青山君を誘った最大の理由は別にあるのですが、そのことは小説の最後のほうで述べられています。

自分の意志をよそに弟子入りを告げられた青山君ですが、湖山先生を「食えない」老人と思うと同時に「居心地の良さ」も感じ、誘いを受けて湖山先生の自宅兼アトリエを訪れます。そこで、無心に筆を動かす楽しさを知り、水墨画の世界に入っていくのでした。

心に深い傷を負った青年が、突然、大家に見いだされ、サラブレッドの美少女としのぎを削って精進し、彼の可能性を信じる友人たちに励まされ、兄弟子たちに導かれて、人として、芸術家として成長していくという大筋は、ありがちな型で、都合が良すぎるかもしれません。

が、青山君の誠実さや責任感、鋭い鑑賞眼、手の器用さ、何日でも没頭できる力など、彼が天才肌かつ努力もできる人物であるということを示す叙述が文中に盛り込まれていて、その道の大家であればそうした逸材を見抜く眼を持っているであろうことを考えると、このお話のようなこともあながちないとは言えないと思います。

なにより、この作品の良さは、水墨画の魅力と、ものを創り出すことの本質と核心を、ていねいに、言葉を尽くして説いているところです。物語の中には、兄弟子や先生たちがお手本を描いて見せてくれる場面があります。青山君はそこから筆運びといった超絶技巧だけではなく、描こうとする対象から何を読み取るかが大切なのだということに思い至ります。「目が届くところにしか、手の技は届かない」という湖山先生の教えが、本書のテーマの一つになっています。

作者の砥上さん自身が、書道や水墨画を長年探究してこられたため、上滑りではない、深い思索の果実が文章に表れています。そのこなれた文章は、とてもデビュー作とは思えませんでした。

なぜタイトルが「僕は、線を描く」ではなく、「線は、僕を描く」なのか、そこに込められた作者の思い、青山君や湖山先生の思いを味わってください。

ところで、原作でも漫画でもいい味を出している友人の古前君という登場人物は、作者の砥上さん自身が反映されているそうです漫画の作者、堀内厚徳さんとの対談では、漫画で古前君が活躍しているのを喜ばれていて微笑ましいですよ。
線は、僕を描く
砥上裕將(著)
講談社 (2021)
「できることが目的じゃないよ。やってみることが目的なんだ」 家族を失い真っ白い悲しみのなかにいた青山霜介は、バイト先の展示会場で面白い老人と出会う。その人こそ水墨画の巨匠・篠田湖山だった。なぜか湖山に気に入られ、霜介は一方的に内弟子にされてしまう。それに反発する湖山の孫娘・千瑛は、一年後「湖山賞」で霜介と勝負すると宣言。まったくの素人の霜介は、困惑しながらも水墨の道へ踏み出すことになる。第59回メフィスト賞受賞作。 出典:amazon
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橋本 信子
大阪経済大学経営学部准教授

同志社大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程単位取得退学。専門は政治学、ロシア東欧地域研究。2003年から初年次教育、アカデミック・ライティング、読書指導のプログラム開発にも従事。共著に『アカデミック・ライティングの基礎』(晃洋書房 2017年)。
BLOG:http://chekosan.exblog.jp/
Facebook:nobuko.hashimoto.566
⇒関西ウーマンインタビュー(アカデミック編)記事はこちら

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