死にゆく者の祈り(中山七里)

人の一生について深く考えさせられる
死にゆく者の祈り
中山 七里(著)
中山 七里(著)
タイトルに惹かれて手に取りました。
大学の登山サークル仲間だった2人の青年がその後疎遠になり、中年になって思わぬ再会をするところから物語は始まります。
一方は、2人も人を殺した死刑囚。
もう一方は僧侶で、教誨師として死刑囚である元友人の前に現れます。
教誨師とは、刑務所や少年院などで宗教的な教えを説いて心のケアや更生を支援する宗教家のこと。
僧侶、牧師、神父などがボランティアとして教誨師の役割を担っていることが多いそうです。
相手が死刑囚の場合、面会できる唯一の民間人ということになるそうです。
私は「教誨師」という言葉は知りませんでしたが、映画などでその存在は知っていました。
死刑執行の日、刑場に向かう前に神父さんやお坊さんが最後に言葉をかけている場面を何度か見たことがあるからです。
私はてっきり、教誨師の仕事は死刑囚が少しでも心安らかに死を受け入れられるように諭すところで終わるものだと思っていました。
一種儀礼的な役割だと解釈していたのです。
でも実際はそれだけではないようです。
刑が終わるまで立ち会い、祈りを捧げながら最後まで見届ける勤めがあるのですって。
最後のボタンを押す執行人と同じくらい辛いお仕事のように思います。
ましてや、相手がかつての友人だとしたら?考えただけでも息が詰まりそう。
教誨師である高輪顕真は、いつ訪れるかわからないその日を想像すると、最後まで平常心で見届けられるかどうか自信がありません。
なにしろ相手はかつて登山の喜びや苦労を共にした仲間なのですから。
その反面、だからこそ他でもない自分が最期を見守るべきなのだとも感じています。
一方、死刑囚である関根要一は、顕真がかつての大学の同級生であり、登山仲間だったとわかった上で自分を担当する教誨師に顕真を指名しました。
どこの誰か知らない人に見送られるより良いと思ったのかもしれません。
まぁ、なんという重苦しい物語の始まりでしょうか。
自分の役割とはいえ、悩む顕真は、そもそも関根が死刑囚であること自体に納得がいきません。自分が知っている関根は決して人を殺めるような人間ではないからです。
そこで、関根が起こした殺人事件を詳細に調べることにします。
彼が犯した罪に納得ができたなら、辛いながらも教誨師という自分の役割を果たせそうな気がしたのです。
大学時代から何十年も経てば人は変わるものかもしれませんからね。
ところが、調べれば調べるほど納得がいかなくなります。
関根が本当に人を殺めたと思えないのです。
ただ、関根は上告していません。
一審の判決を受け入れ、死刑を受け入れているのです。
もし無実だったら到底受け入れられないはずなのに。
関根のことを調べる顕真に横槍が入れられます。
教誨師の仕事範囲を逸脱した行為だから、それは当然のことかもしれませんが……。
この小説は、ミステリにジャンル分けされるのだと思いますが、謎解きの部分には重きが置かれていないように感じました。
本当に関根が犯人なのか、犯人でないとしたら真犯人は誰で、なぜ関根は冤罪であることを訴えないのかを読者に納得させる必要があるはずですが、私にはその部分が弱く感じられました。
私はこの小説のミステリ要素よりも、人の一生について深く考えさせられる部分に感銘を受けました。
一見平穏そうに見えても、誰の人生も後悔だらけなのかも知れないと。
読み終えてからしばらく、考え込んでしまう小説でした。
ちなみに、私は人生において後悔はほとんどありません。
後悔するような失敗をしていないから、というわけではなく、例えばタイムマシンに乗って過去に戻ったとして、私はかつて選ばなかったもう一つの道を選ぶだろうかと自問する時、いや、絶対に前と同じ道を選ぶだろうと確信が持てるから。
信念などという上等なものではありません。
私は頑固だし学習能力が低いから、絶対同じことを繰り返すだけだという変な意味での自信があるのです。
なので、私はいつも「後悔しても始まらないわ」と思って先に進んでいます。
大学の登山サークル仲間だった2人の青年がその後疎遠になり、中年になって思わぬ再会をするところから物語は始まります。
一方は、2人も人を殺した死刑囚。
もう一方は僧侶で、教誨師として死刑囚である元友人の前に現れます。
教誨師とは、刑務所や少年院などで宗教的な教えを説いて心のケアや更生を支援する宗教家のこと。
僧侶、牧師、神父などがボランティアとして教誨師の役割を担っていることが多いそうです。
相手が死刑囚の場合、面会できる唯一の民間人ということになるそうです。
私は「教誨師」という言葉は知りませんでしたが、映画などでその存在は知っていました。
死刑執行の日、刑場に向かう前に神父さんやお坊さんが最後に言葉をかけている場面を何度か見たことがあるからです。
私はてっきり、教誨師の仕事は死刑囚が少しでも心安らかに死を受け入れられるように諭すところで終わるものだと思っていました。
一種儀礼的な役割だと解釈していたのです。
でも実際はそれだけではないようです。
刑が終わるまで立ち会い、祈りを捧げながら最後まで見届ける勤めがあるのですって。
最後のボタンを押す執行人と同じくらい辛いお仕事のように思います。
ましてや、相手がかつての友人だとしたら?考えただけでも息が詰まりそう。
教誨師である高輪顕真は、いつ訪れるかわからないその日を想像すると、最後まで平常心で見届けられるかどうか自信がありません。
なにしろ相手はかつて登山の喜びや苦労を共にした仲間なのですから。
その反面、だからこそ他でもない自分が最期を見守るべきなのだとも感じています。
一方、死刑囚である関根要一は、顕真がかつての大学の同級生であり、登山仲間だったとわかった上で自分を担当する教誨師に顕真を指名しました。
どこの誰か知らない人に見送られるより良いと思ったのかもしれません。
まぁ、なんという重苦しい物語の始まりでしょうか。
自分の役割とはいえ、悩む顕真は、そもそも関根が死刑囚であること自体に納得がいきません。自分が知っている関根は決して人を殺めるような人間ではないからです。
そこで、関根が起こした殺人事件を詳細に調べることにします。
彼が犯した罪に納得ができたなら、辛いながらも教誨師という自分の役割を果たせそうな気がしたのです。
大学時代から何十年も経てば人は変わるものかもしれませんからね。
ところが、調べれば調べるほど納得がいかなくなります。
関根が本当に人を殺めたと思えないのです。
ただ、関根は上告していません。
一審の判決を受け入れ、死刑を受け入れているのです。
もし無実だったら到底受け入れられないはずなのに。
関根のことを調べる顕真に横槍が入れられます。
教誨師の仕事範囲を逸脱した行為だから、それは当然のことかもしれませんが……。
この小説は、ミステリにジャンル分けされるのだと思いますが、謎解きの部分には重きが置かれていないように感じました。
本当に関根が犯人なのか、犯人でないとしたら真犯人は誰で、なぜ関根は冤罪であることを訴えないのかを読者に納得させる必要があるはずですが、私にはその部分が弱く感じられました。
私はこの小説のミステリ要素よりも、人の一生について深く考えさせられる部分に感銘を受けました。
一見平穏そうに見えても、誰の人生も後悔だらけなのかも知れないと。
読み終えてからしばらく、考え込んでしまう小説でした。
ちなみに、私は人生において後悔はほとんどありません。
後悔するような失敗をしていないから、というわけではなく、例えばタイムマシンに乗って過去に戻ったとして、私はかつて選ばなかったもう一つの道を選ぶだろうかと自問する時、いや、絶対に前と同じ道を選ぶだろうと確信が持てるから。
信念などという上等なものではありません。
私は頑固だし学習能力が低いから、絶対同じことを繰り返すだけだという変な意味での自信があるのです。
なので、私はいつも「後悔しても始まらないわ」と思って先に進んでいます。
死にゆく者の祈り
中山 七里(著)
新潮社
何故、お前が死刑囚に。教誨師の高輪顕真が拘置所で出会った男、関根要一。かつて、雪山で遭難した彼を命懸けで救ってくれた友だ。本当に彼が殺人を犯したのか。調べるほど浮かび上がる不可解な謎。無実の罪で絞首台に向かう友が、護りたいものとはー。無情にも迫る死刑執行の刻、教誨師の執念は友の魂を救えるか。急転直下の“大どんでん返し”に驚愕必至。究極のタイムリミット・サスペンス。 出典:楽天
中山 七里(著)
新潮社
何故、お前が死刑囚に。教誨師の高輪顕真が拘置所で出会った男、関根要一。かつて、雪山で遭難した彼を命懸けで救ってくれた友だ。本当に彼が殺人を犯したのか。調べるほど浮かび上がる不可解な謎。無実の罪で絞首台に向かう友が、護りたいものとはー。無情にも迫る死刑執行の刻、教誨師の執念は友の魂を救えるか。急転直下の“大どんでん返し”に驚愕必至。究極のタイムリミット・サスペンス。 出典:楽天

池田 千波留
パーソナリティ・ライター
パーソナリティ・ライター
コミュニティエフエムのパーソナリティ、司会、ナレーション、アナウンス、 そしてライターとさまざまな形でいろいろな情報を発信しています。
BROG:「茶々吉24時ー着物と歌劇とわんにゃんとー」
ヒトが好き、まちが好き、生きていることが好き。だからすべてが詰まった本の世界はもっと好き。私の視点で好き勝手なことを書いていますが、ベースにあるのは本を愛する気持ち。 この気持ちが同じく本好きの心に触れて共振しますように。⇒販売HP/Amazon
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