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よみがえる与謝野晶子の源氏物語(神野藤昭夫)

地道でありながらも情熱に満ちた探究

よみがえる与謝野晶子の源氏物語
神野藤 昭夫 (著)
著者の神野藤(かんのとう)昭夫氏は、日本古典文学の研究者です。2001年に刊行された『与謝野晶子の新訳源氏物語』(角川書店)の解説を執筆したことをきっかけに、晶子による源氏物語の訳業にまつわる謎を探求してきました。その集大成が本書です。

本書は、これまで書いた学術論文をたんに集めて並べたのではなく、多くの広汎な読者に読んでもらうことを願って、新たに書き下ろしたものです。そのため、無駄な重複がなく、かつ、一般の読者にもわかるように丁寧な説明がほどこされ、たいへん読みやすい本になっています。図版や資料もたっぷりある500ページ近い大部の著作ですが一気に読んでしまいました。

さて、本書の主人公、与謝野晶子(1878-1942)は、明治から昭和にかけて活躍した日本を代表する歌人です。はじめての歌集『みだれ髪』は、情熱的で官能的な新しい詩歌の世界を切りひらいたと言われます。晶子は生涯に2万首とも5万首ともいわれる数の歌を詠みましたが、同時に社会にむかって発信批評する社会思想家であり教育者でもありました。

晶子は、夫鉄幹との間に13人の子を出産し(ただし一人は死産、一人は夭折)、家事育児をしながら膨大な量の仕事を猛スピードでこなします。生涯に数種類発表した『源氏物語』の現代語訳も、生活費や夫の渡欧費を稼ぐためという意図もありました。

もちろん、晶子の『源氏物語』へのかかわりは、たんに生活の糧のためだったわけではありません。晶子は11歳ごろから古典文学に親しみ、女学校を卒業後は家業の和菓子屋を手伝いながら古典を読み込んできました。注釈付きの本に頼らず、原文を繰り返し読むことで自らのものとしていったようです。

晶子の『源氏物語』の講義を受けた山川菊枝によると、「話の内容たるや自信満々」で、「日本で源氏のわかるのは私ひとりといわぬばかりの口ぶり」だったそうです。その後執筆を始めた『新訳源氏物語』は「原著の精神を我物として訳者の自由訳を敢てした」大胆なものでした。

晶子は、『新訳源氏物語』と並行して『源氏物語講義』を執筆していました。これは夫妻の文学仲間で実業家の小林政治(まさはる)氏が与謝野家の窮状を救うべく依頼したもので、『新訳』とは異なり、原文を逐語的に解釈していくものであったようです。鉄幹を追っての渡欧をはさんで10年以上書き続けましたが、その原稿は大正 12(1923)年 9 月 1 日、関東大震災による火災で焼けてしまいました。

しかしながら晶子は、昭和8(1933)年ごろから、源氏物語の新新訳に着手します。森鴎外や上田敏が序文を寄せた『新訳』に満足しておらず、焼失した『講義』の原稿料を払ってくれていた小林氏と再び現代語訳を世に出そうと、6年ほどを費やし、昭和14(1939)年、遂に完成させたのでした。

神野藤氏は、このような晶子の生涯をかけた『源氏物語』の訳出の過程におけるさまざまな謎をつぶさに検討していきます。たとえば、焼失した幻の『源氏物語講義』がどのようなものであったかを奇跡的に一枚だけ残っていた自筆原稿から推測したり、『新訳』の訳出の分量が後半になるほど逐語的になっていく理由を推量したりします。

また神野藤氏は、パリを訪れて、鉄幹と晶子が滞在した下宿先を特定したり、パリでの日々の生活が晶子にもたらした変化を考察したりします。さらに、何種類も存在する『源氏物語』のうち、晶子が参照していたものはどの版元のものであったかを検討します。

そのように、晶子の訳業を訪ねる旅に出ては、また時をおいてその続きの旅に出て、その時々の感興を読者と共有するように書かれた本書は、「読者とともに歩く謎解きの推理小説」のようになっています。晶子の『源氏物語』への深い思いと、それに惹かれた著者の地道でありながらも情熱に満ちた探究にすっかり魅了されました。

なお、晶子の出身地、大阪府堺市のさかい利晶の杜では、5月20日から6月11日まで、 関東大震災100年の企画として「災害をのりこえる晶子の意志」展を開催されます。こちらも併せていかがでしょう。
よみがえる与謝野晶子の源氏物語
神野藤 昭夫 (著)
花鳥社 (2022)
〈近代初の現代語訳〉誕生の裏側。『新訳源氏物語』と『新新訳源氏物語』――晶子の生涯を貫いた「源氏」に賭ける情熱の軌跡! 翻訳はどのようにして完成したのか。新資料の数々をもとに訳業の具体像を明らかにする。 出典:amazon
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橋本 信子
大阪経済大学経営学部准教授

同志社大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程単位取得退学。専門は政治学、ロシア東欧地域研究。2003年から初年次教育、アカデミック・ライティング、読書指導のプログラム開発にも従事。共著に『アカデミック・ライティングの基礎』(晃洋書房 2017年)。
BLOG:http://chekosan.exblog.jp/
Facebook:nobuko.hashimoto.566
⇒関西ウーマンインタビュー(アカデミック編)記事はこちら

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